2004年12月号
活字中毒だからできること
三度のメシより本が好き。そんな彼が巡り会った仕事は本屋さん。やりたいことはどうすれば見つかるのか。探して見つかるものなのか。自分の「好き」を仕事にするってどうなのか。
(文 川人 サエコ)
新幹線で博多駅に着いた私は、待ち合わせ場所であるジュンク堂福岡店へ向かった。
ジュンク堂のある天神は、博多駅から地下鉄で三駅のところにある九州最大の繁華街だ。遠くから見える看板を頼りに辿り着くと、入口の雑踏に紛れて小磯さんがポツッと立っていた。
挨拶もそこそこにさっそく店内を案内してもらう。
ジュンク堂福岡店は、在庫150万冊以上を誇る西日本最大の大型書店。天井に届きそうな高い書架、約40席ある座り読みコーナーなど、神戸店でおなじみの本好きにはたまらない図書館のような店内。
「4階のコミックス部門は蔵書数約5万冊。これらを、ぼくを含めて6人で回してます。」さすが専門書の充実がウリだけあってコミック本でも品揃えは半端じゃない。
神戸を発祥の地とするジュンク堂がこの地に進出したのは今から約3年前。この界隈では当時、八重洲ブックセンターや丸善、紀伊国屋書店などの大型書店が林立していた。そこに、ジュンク堂が進出し、「第二次ブック戦争」がエスカレートした(その後、八重洲ブックセンターは撤退)。コミックス部門は、この激戦区に乗り込むにあたってジュンク堂が用意した、いわば目玉となるコーナーなのだ。
「通常、大型書店には仕入れ専門の部署がありますが、ジュンク堂は私たち現場の人間が仕入れます。店頭でお客様と直に接しているから、タイムリーで的確な仕入れができる。それに、自分の判断で仕入れた本を売ることができるのは、やり甲斐がありますね。」
コミックス部門立ち上げのために東京からやってきた彼は、正真正銘の腕利き社員。なのにこの気さくさは…、不思議な人だ。
店内を一巡した後、場所を改めさっそくインタビューをはじめた。
好きな本を読みたいから図書委員に
「いわゆる転勤族の子どもで、引っ越しが多く、転勤してすぐは友達がいない」というのがきっかけとなり読書にのめり込んだ小磯少年。「小学校や近所の図書館で興味のある本はほとんど読んでしまった」という。中学時代はさらにエスカレートし、「図書委員長になって、学校の図書購入費を使い『ク・リトル・リトル神話大系全12巻(国書刊行会 刊)』など、自分が読みたい高価な本を買っては全部読んだ」というエピソードが示す通りの度を越した活字中毒である。
高校では体育会系の部活よりも厳しいと評判の演劇部に所属し、勉強そっちのけのハイスクールライフ。高校演劇コンクールでは近畿ブロック大会出場を果たす。「高校での演劇活動が評価されるから」との先輩のアドバイスで人文学部を選んだ。
入学してみると人文学部の学びとはマッチしていた。子どもの頃から感じていた読書による知的好奇心を満たす喜び。これまでは暗記ばかりで不毛と思えた勉強だが、それが学問になればこうもおもしろいものだったとは…。高校時代とは一転、自らの知的好奇心の赴くがままに文学・歴史・民俗学・心理学などさまざまな科目を受講した。それに飽きたらず他学部の授業でおもしろいと聞くと、潜り込んで講義を聞いていたという。卒業する頃には、所要単位の基準を大きく越え、卒業が危うい友人から「単位を売ってくれ」と言われるほどだった。
さまざまな知識を雑食し吸収するという、まさに人文学部的な学びに明け暮れる一方で、文芸サークルに所属し、「書く」ことも楽しんだ。年に数回大学の印刷機を借りて文芸誌を発行し、3年生の時、部長になりサークルから部に昇格させたという。その他、週の半分以上は誰かの家で酒を飲み、グリーンフェスティバルは欠かさず見に行き、伊藤先生のゼミ旅行にひっついて中国に観劇旅行に行くなど、貪欲に大学生活を楽しんだ。「基本的にお祭り好きなんですね。おもしろそうなイベントがあれば、かならず頭を突っ込むというのが当時の生活方針でした。」
そんな彼がゼミ(専攻演習)で学んだのは、故伊谷純一郎先生。国際的にも有名なサル学の権威である人類学者だった。
「行動派の先生だったんです。船越山にゼミでフィールドワークに行ったとき、夕暮れ時にひとりで散歩してたら、炭焼きをしているおじさんと会ったんですね。いろいろお話をうかがい、おもしろかったんで次の日もおじゃまして、炭を焼くところを見せてもらった。真っ赤に燃える炭はまるで宝石のように美しかった…。」それが彼の卒論テーマとなった。テーマのユニークさで厳しい卒論審査をなんとかくぐり抜けることができた。が、就職をしくじってしまった。
活字中毒が転機をもたらす
バブルが弾け、就職率が毎年最低を更新していた95年、同級生たちは苦しい就職活動に明け暮れていた。就職活動を始めてはみたものの、「自分を追 い詰めるものが当時は感じられなかった」と会社説明会を10社ほど廻ったところでやめてしまった。典型的なフリーターへの道である。
卒業後は、神戸に留まる理由もなかったので、両親の住む千葉へ。もともと書くことは好きだったので、知人に紹介してもらった雑誌ライターという仕事に手を出したこともあった。しかし「お金をもらっているにも関わらず、興味がないと筆が進まない自分の性格ではライターはできない」と感じ、半年で辞めてしまった。そして停滞の2年間が始まる。
個人経営のテレビゲームショップでアルバイトをする生活。決して充実しているとは言い難い日々の中で、彼の癒しとなっていたのが本屋での立ち読みだった。いくつかの雑誌の発売日に合わせ最低週三回は勤務後、本屋に通う。コミックから小説まで2縲怩R時間、本の持ちすぎで手が痛くなるまで読んだ。
そんな生活に一つの転機をもたらしたのが、たまたま目に入った新聞広告。新しく出来るジュンク堂池袋店の求人についてのものだった。「おもしろそうだな・・・」彼は面接を受けてみることにした。
ちょうどこの頃、大分や姫路、鹿児島など次々と地方都市に出店攻勢を掛けていたジュンク堂は、地方区から全国区へ飛躍するために、東京・池袋に大型書店オープンを計画中だったのだ。
「面接ではどれくらい本は読むのかと聞かれ、いつも立ち読みで親しんでいたコミック雑誌のタイトルを次々挙げました。20誌くらい言ったところで、笑いながら『もういいです』と言われた、それが社長だったんです。」
池袋店では新しい試みとしてコミックス部門の充実が計画されており、求められていた人材にぴったりはまったのが小磯さんだったというわけだ。苦節2年の歳月を経て、彼は正社員として入社した。もちろん、ジュンク堂における初のコミックス担当者として。
池袋店に入社後、大阪の難波店に異動。大阪本店の立ち上げに携わり、ふたたび池袋店に戻って増床の指揮を取る、そして現在の福岡店に配属され今年で4年目。入社以来一貫してコミックス担当として歩み、今ではジュンク堂で欠くことのできないコミックス部門のエキスパートに成長した。
「本は片っ端から読んできましたが、それに比べるとマンガはそんなに読んでないんです。基本的にマンガを読むのは嫌いじゃないくらいのレベルでした。コミックスに関する知識はこの業界に入ってから身につけたものばかりですね。」なるほど、現場で使える専門知識はそういうものなのか。
好きじゃないとやってられない
気がつくとインタビューは3時間を過ぎていた。紙面ではとても書ききれないたくさんの話を聞くうちに、彼がいかに本好きなのかということが、しみじみと伝わってきた。
意外と思われるかもしれないが、本屋の仕事は肉体労働だ。毎日ダンボールに詰められた新しい本が山のように送られてくる。それを書架にならべるところから始まるのだが、本は重い上に、新品の本は凶器のように切れ味もよく、手を怪我することも多々ある。地味な上に重労働。しかも、並はずれた専門知識も必要だ。
毎日これだけの本と向き合っていると、いくら好きでも嫌いになってしまうのではと心配するが、給料を本につぎ込み、さらに本を置く倉庫を別に借りている社員もいるという。
小磯さんは、今でも本を持ち歩いているという。
「最近は、文庫本。持ち運びに便利、経済的、場所を取らない、汚れても許せる。よく読むのは、ミステリー・SF・歴史ものですね。今は佐藤賢一の『二人のガスコン』を読んでます。次は東野圭吾の『片想い』の予定。マンガは仕事柄だいたいは目を通しています。」
「本が好きじゃないと続けられない仕事ですよね。」インタビューの最後に語った小磯さんの言葉が胸に沁みる。
どうせ働くなら好きな仕事を見つけたい、と私たちは思う。しかし、好きな仕事とは、裏を返せば過酷な仕事なのかもしれない。常軌を逸するほどの「好き」だからこそ、並の人間なら耐えられないことでも耐えられる。結果として好きな仕事でメシが食える。
「好きな仕事に就きたいなんて軽々しく言えないな…」私は天神に隣接する博多で道路沿いに並ぶ屋台でとんこつラーメンのスープを啜りながら、そう遠くない自分の未来のことを考えていた。
卒論ダイジェスト
兵庫県南光町船越山における炭焼き産業の盛衰
南光町は西播磨にある町で、ここの観光名所の1つである瑠璃寺に池ノ谷という谷がある。かつてここで盛んに炭焼きが行われていた。しかし昭和40年代に、瑠璃寺の所有林は国定公園に指定され、無許可で木を伐れなくなってから炭焼きは途絶えた。現在では船越山で炭焼きを続けている人がいないので、ここでは船越山に隣接する佐用町を訪れ、炭焼きの工程を記録し、話を聞いている。
中盤では、炭窯の立地条件や、炭材に適している樹木、また炭ができるまでの様子が書かれている。さらに、戦前、戦後の炭焼きを取り巻く状況の違いを挙げ、何故炭焼きが途絶えていったのかも論じられている。
最後は、炭焼きの厳しい現状について触れながらも、山村の貴重な文化の一つとして残っていって欲しいとしてまとめられている。