2013年3月号

一日生きることは、一歩前に進むことでありたい

陸上競技に明け暮れた高校時代と実業団時代、
大学時代の国を超えた人との出会い、懸命に駆け抜けて今。
(取材・文 増成 翔)

 

仕事で異文化交流

「平均300通くらいでしょうか。毎日、ありえないぐらいのメールが届きます。最初は、やっていけるのだろうかと心配でした」
蒲池さんが勤務している株式会社横浜通商は、船舶の消火設備や救命艇の整備点検、海難防止用具の販売、海上での遭難や安全のための世界的制度であるGMDSS (Global Maritime Distress and Safety System) の検査業務を行っている。社員数は40名足らずだが、日本郵船、商船三井、川崎汽船など大手海運会社を顧客にもつ業界のリーディングカンパニー。蒲池さんの仕事は海外で行う船舶救命救急設備の点検業務の手配。お客様からのオーダーを聞いて、世界のいろんなところにある外注先に連絡を取って発注する、もちろん英語で。「アルゼンチン、カナダ、韓国、インド、モロッコ、アラブ首長国連邦、南アフリカ・・・、お客様である船会社から依頼を受ければ世界各国の外注先と連格を取り、検査を手配します。自分なりの心配りでお客様に喜んでもらえたときにいちばんのやりがいを感じます。仕事を通じて異文化交流できるのも楽しいですね」

 

気がつけば駅伝ランナーに

中学時代はごくごく普通の生徒だった蒲池さん。進路を考えるようになったころ、体育科という学科がある女子校の存在を知る。勉強嫌いだった彼女は、「体育科だから勉強しなくていい」と食いついた。受験での選考は得意の長距離走。入試の日、学校の門をくぐってショックを受けた。「周りを見るとみんなショートカット、下級生は上級生を見かけるたびに挨拶している。まるで軍隊みたい」下見をせずに受験したことを悔やみながら選考に臨んだ。
結果は合格。「受かってしまった」と、悲しいような気持ちだという。
入学すると陸上競技中心の生活がはじまった。スポーツが盛んなこの高校、陸上部の練習は予想以上にハードだった。ジャージを着たまま就寝し、5時前には起きて、電車を乗り継ぎ阪急夙川で降りる。そして苦楽園に至る川沿いの道、約3キロをランニング。部室で軽く食事をし、授業がはじまるまでの1時間、朝練。放課後も暗くなるまで走った。月に約750キ口走っていたという。
そんな毎日に耐えられなくなり、中学時代の部活の先生に相談しに行ったが留守だった。後日、手紙が送られてきた。「やりたいと思うことをするのもひとつの手。だが、与えられた道を精一杯やり抜くことも大切」と。
「『ああ、私はこの道からは逃げられないんだな』と観念しました。その日から気持ちを入れ替えました」「絶対、駅伝のメンバーにはいれるぐらい強くなって、みんなを見返してやる」
朝と放課後の練習に加え、さらに夜は自主練で家の近くを走った。そんなハードな練習の甲斐あって、入学当初はいちばん遅かったタイムが伸びていき、2年生の夏に行われた県の体育大会では、女子3000メートル競走の部で7位に入賞した。
しかし、好事魔多し、2年生の秋に原因不明のじんましんに続いて虫垂炎に罹ってしまう。「お医者さんに走ることをやめるよう言われました。けど、これまでいろんな誘惑にも負けず厳しい練習にも耐えて陸上一色でがんばってきたのに、結果を出さずにやめたくなかった」
3ヵ月後に復帰、食事やトレーニング内容など自己管理を徹底し、3年生の10月に行われた兵庫県の高校駅伝では4区走者として2位の成績を残した。

 

予備校で運命の出会い

大阪マラソン(2012年11月25日)アフター5に予定がない日は、仕事を終えると神戸空港までの往復約10キロを走る。

高校時代、とくに目立った成績は残せなかったが、けんめいに練習する姿勢に将来性を見込まれ実業団陸上部をもつ会社に就職。実業団駅伝ではアンカーを務めたが、心身ともに限界を感じ、入社後2年で辞めることになる。このころ、駅伝に挑む彼女を影でバックアップし続けた父親が突然亡くなった。会社を辞めることを知らなかった父親は、最愛の娘が立派な会社で働いていると喜んでいた。父の死後、それを聞いたとき、複雑な心境だった。「落ち込みました。けど、考えたんです。過去のことを悔いるより、これからは『自分で決めた道がやっぱりよかった』と思えるように、いつも前向きで生きいていこう!それが支えてくれた父へのせめてもの恩返しだと」
走ることが生活の中心だった5年間から一転、なんにも縛られない自由な時間が訪れる。「あれほどやめたかった陸上をやめて会社も辞めて自由になると、何も属していない自分が寂しくなり、すごくいやになりました」
そんなある日、母が「大学行ったらどう?」と言った。「『大学に行けば多くの人に出会えるし、今まで陵上ばかりやってきたのだから、やりたいことをなんでもしたらどう?そうすれば道が開けるんじゃないの』と・・・。それを聞いて、『よし、行こう!』と」
高校時代は勉強より練習、しかも卒業して2年が経つ。勉強に苦手意識をもっていた蒲池さんは予備校にはいって「とにかく一日に10時間は勉強する」と決めて、朝から晩まで予備校で粘った。予備校にはいろんな人がいた。高校を中退し大検を受けて大学に進学しようとする人、文系大学卒業後に獣医になるために理系学部に進もうとする人、蒲池さんのように一度社会に出てから大学に進もうとする人・・・。休み時間に今までのことや将来の夢を語り合った仲間のひとりである斉藤さんは大手自動車メーカーに就職し、休暇を取って東南アジアで小学校を作るボランティアに参加した。それがきっかけで、「本当の幸せってなんだろう?自分は車ばっかり造ってなんのためになるのだろう」と思いはじめ、「ゼロをプラスにしていく仕事より、マイナスをゼロにする仕事をしたい。だから医療の仕事をしたい」と、会社を辞めて学んでいるというのだ。彼との出会いによって蒲池さんの外国への思いに火がついた。

 

いろんな人々との出会い

「大学への進学を決めた理由は、自分がしたいことを発見したいから」
医学部や栄養学部のような専門性の高い学部ではなく、「広く」学べる学部を探していた蒲池さんにとって、人文学部は性に合っていた。「大学ではやりたいと思ったことはなんでもしよう」と決めていた彼女は、「一度の船旅で4ヵ国を訪問することができる」ところに惹かれ、1年生の夏休みに兵庫県国際交流協会主催の「大学洋上セミナーひょうご」に参加した。これは、4年制大学の学生が豪華客船でアジア太平洋地域を巡るプログラムで、アメリカの洋上大学船、「ピッツバーグ洋上大学」をモデルとしたものだった。2008年までに20年にわたって15回実施され、延べ7,000名を超える県内の学生が参加した。船内では「アジア太平洋の人と暮らし」をテーマに各国の経済・文化・自然などについて学び、約1ヵ月にわたる船内での共同生活で、ディベート大会や船上運動会などが行われた。寄港地の広州やシンガポール、パース、バリ島では現地の人々との交流やホームステイが行われた。「一度に4つの異なった文化に触れることで、視野がいっきに広がり、もっと多くの世界を見たいと思いました」
つたない英語でも熱心に耳を傾けてくれた人たちのおかげで、それまで苦手意識があった英語も嫌いではなくなった。それがきっかけとなって、在学中は県の国際交流協会で外国人に日本語を教えるボランティアをするなど、英語を使う機会をもった。さらに彼女は、3年生の夏、ピッツバーグ洋上大学に2週間参加した。洋上セミナーの参加者を対象に実施された選考試験を受け、選ばれたのだ。約650名のアメリカ人学生の中で、日本人参加者はたったのふたり。学生たちの学習に取り組む態度と姿勢に感銘を受けた。教室の座席は前方から埋まっていき、授業中は居眠りする学生も私語もなく、積極的に質問していた。
船の中で有意義な時を過ごそうと、空き時間を利用してもうひとりの日本人参加者と「日本語教室」を企画した。「約30名の参加者があり、約1週間行いました」
回を重ねるうちに参加者が増えて席が足らなくなり、後半には座れない参加者も出た。「最終日に教室へ行くと黒板に『We Love Mami & Kaori』と書いであって、胸がいっぱいになりました」

 

海外での暮らしに憧れて

在学中に11回の海外旅行と9ヵ国を訪れ、国際交流で得た体験と人との出会いの中で、自己発見や成長できたことを実感した蒲池さん。卒業後は、「なにかのかたちで海外とかかわりのある仕事につきたい」という思いを捨てきれなかった。そこで、2004年にオーストラリアへワーキング・ホリデーに旅立った。ワーキング・ホリデーとは渡航先の国で暮らしながら、その聞の滞在資金を補うために仕事ができる制度だ。彼女はRusso Institute of Technologyという専門学校のビジネスコースで勉強しながら、バイトをした。家庭裁判所の掃除、回転ずしのホール、寿司作り工場ではマヨネーズ担当として、ひたすらマヨネーズをかけていた。
1年後、「社会的に不安定な自分がいやで、日本で働こう」と帰国した。近況報告をするためにゼミでお世話になった竹田先生を訪ねたところ、キャリアセンターに取り次いでくださった。そこで、「神戸ポートピアホテル」を紹介され、めでたく採用された。
仕事はベルガール。正面玄関でのお客様のお出迎え、館内の案内、観光案内に加え、VIPゲストの誘導や救急手配、サプライズ企画のお手伝いなどさまざまな仕事をこなした。「ホテルの仕事にはいつもドラマがありました。お客様の門出や記念日、お客様一人ひとりに異なる背景があって、そのお手伝いができることに喜びを感じていました」
充実した日々が続き、入社してからあっという問に5年半の歳月が流れていた。そして株式会社横浜通商へ転職し、今まで築いてきた語学やホスピタリティのキャリアを、今度はビジネスの場で活用し、磨きをかけている。
そして、蒲池さんは多忙な日常の合間を縫って、時事英語の読み書きを学び、語学ボランティアに参加し、国家資格である「通訳案内士」取得のための勉強にも取り組んでいる。通訳案内士とは、報酬を得て海外からの観光客を外国語で案内するために必要とされている資格だ。「大学に入学するまでは陸上競技をがむしゃらに取り組んでいたことの意味がよくわかりませんでした。でも大学にはいって自分の時間が流れだし、多くの人との出会いによってその意味がわかりました。陸上競技は私の原点。今までの人生を振り返ってみれば、なにも無駄なことはなかった。これからもいろんなたいへんなことが起きるかもしれませんが、よいことも悪いこともすべてが自分のためになると思って生きていきたい」
人との出会いは「一期一会」であるけれど、出会うことでなにかに気づかされたり、勇気をもらったりと、一度きりの出会いがその後の人生を豊かにしてくれると蒲池さんは語っていた。常に前向き、そして多くの人と出会い楽しむ。このふたつを大切にすれば、見えない未来が楽しくなっていくような気がした。

 

「ピッツバーグ洋上大学」
出港前カナダのバンクーバー
にて(2002年9月)

 

 

 

 

兵庫県総合体育大会女子
3000m決勝
(高校2年生のころ)

 

 

 

 


オーストラリア時代の
恩師Sisiraと娘さんのVladaと
(2008年)

 

 

 


大親友のフランス人Manonと
ブラジル人Edward
(2004年)