2005年1月号

防災の最前線に立つ

新潟で起こった中越地震。その一週間前に、私は舩木さんへの一度目の取材を終えていた。予想もしていなかった事態の中で、二度目の取材は延び、ようやく彼女の在籍する京都大学防災研究所で話を聞けたのはそれから約一ヶ月後。締め切り直前だった。
(文 宇高枝里)

 

地震発生から、一週間後のこと。報道は、人々の不安の声や、道路に石灰で書かれた「SOS」の文字を伝える。余震も治まらぬ中、舩木さんは研究所の仲間と現地に飛んだ。
激震地である見附市、長岡市、川口町の避難所を訪ね、対応にあたっている行政の職員へ聞き込みをするうち、テレビに映る姿は決して被災地の全貌ではなかったことに気がついたという。
「地域によって、被害の大きさも復興の度合いも全然違う。被災地全体がひとつのものとして外部に発信されているから、本当に必要な所に物資が届いてなかったりしたんです。」
マスコミに切り取られた画面の中では被災地がひとつのかたまりのように感じられ、地域によっての「差」は見えにくい。それは、物資などで支援する人々にとって、知りたい情報が得られていないということを意味する。 「この方法じゃダメって言うだけなら簡単だけど、実際に何がダメで、何が良いのかっていうことを考えなくてはならない。目の前にあることに取り組む行政と、いろんな方向から調べることのできる研究者。それぞれの役割があると思います。」 日本では阪神・淡路大震災以降から、災害に関する知識の習得や防災訓練、被災者の心のケア、交通機関の復旧情報や救援物資の配布状況などの広報活動、緊急組織の対応や連携など、人々の暮らしやコミュニティーをどう守っていくかというソフト面に対する人文社会科学や情報学からのアプローチが広がりつつあるという。
「いくら強い建物を建てても壊れるかもしれないから、起こってからの対応をどうするかっていう部分に問題が移ってきてるんです。人々の意識や対応次第で被害の大きさって違ってきますから。」
際に自分の目で見てみなければ読み取れない問題点を、自分の足で探しに行く。そんな躍動的な彼女が研究者として歩みだすまでには、どんな道を辿ってきたのだろう。

 

1998年。コロラド州の本屋で、絵本に出会う。

大学3年生の夏休み、アメリカのコロラド州で一ヶ月半の短期留学をした。英語が嫌いだった彼女の目的は、現地に住む高校時代の友達に会うこと。

 

せっかくだからとホームステイをしながら語学学校にも通ったが、ホストファミリーの話す英語が全く理解できない。ただ笑って応えるしかできなかった自分に悔しさを感じ、帰国してから一念発起して英会話教室に通い出すこととなる。
3年生の終わる春休み、もう一度アメリカに渡った。高校時代は一日一冊読んでいたというほど本好きの彼女は、書店にフラリと訪れ、自分の英語力で読めそうな本はと探すうちに子どもの絵本のコーナーへと足が向いた。
と視線を落とすと、『Saying Good-bye』というタイトルの絵本がある。手に取って見てみると、読者対象は4歳から10歳までの子どもと書かれてあり、お葬式や交通事故、病気など、死についての知識が噛み砕いて描かれている。死とは自然の約束でいつか訪れるもの、そして、いろんなかたちがあるということを読み手に伝える「デスエデュケーション」の本だった。
れは、死を意識することで、与えられた生をよりよく生きるように考えるという内容の教育で、日本でも阪神・淡路大震災以後、徐々に取り入れられつつある。
死を知ることは、人間の力の限界を知ること。まだ自我の確立されていない子どもに生の有限性を教えるということは必要なのか。教育学のゼミを専攻している彼女にとって、宗教ではなく教育という視点から死にスポットライトを当てるこの考え方は興味深く、卒業論文の題材にしようと思いついた。
しかし、インターネットがまだ今ほど普及していなかった当時。資料は自分の足で稼がなければならない。アメリカの書店で「死をイメージした絵本はあるか」と言おうとすると、「DEATH」の発音がうまくいかず、「は?」という怪訝な顔をされる。苦手な英語で必死に伝え、あらゆるキーワードで検索してもらって何冊かの絵本をなんとか手に入れた。異国の地で、気持ちひとつで動く姿に、現在の彼女のイメージが重なる。

 

1999年。アリゾナ州の大学院で、教育心理学を学ぶ。

無事に卒論を提出した後、短期留学での充実感が忘れられなかった彼女は進路をアメリカの北アリゾナ大学大学院に決め、教育心理学を専攻する。10人ほどの少人数のクラスで、テストの作成方法や、教育の中で教師が抱える問題へのアドバイス方法をコンサルタントとしての立場から学ぶという授業。「現役の学校教師も通っていたので、授業が始まるのが夜の7時というのも珍しくなかったんです。」
日本ではTOEFLの勉強のために語学学校に通い、アメリカでも英会話教室に通って準備はしていたものの、本場の英語での授業についていけずにテープで録音しながら受けたこともあった。しかし、教育に関わる学問であったことが幸いし、言葉のハンデのある彼女に対して理解を示してくれた先生や級友が、彼女の意欲を支える糧となる。「勉強は厳しかったし言葉の壁もあった。でも、わからなきゃ聞けばいいじゃん!って思わせてくれる人たちの助けがありましたから。アメリカでできた友人がいなかったら現在の私はないと思います。」英語は自分の興味のある勉強をするための手段なんだと認識しはじめ、いつしか苦手意識もなくなっていた。
2001年、大学院の修士課程を修了。ひとりっこである彼女の帰国を待つ家族の声もあり、卒業後は日本に戻る。
そんな時、大学時代のゼミの指導教員であった前林清和教授から、神戸に新しく出来ることになった「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」という阪神・淡路大震災のメモリアル施設が人員を募集していると聞いた。防災の知識はないに等しかったが、大震災の起きた年に神戸学院大学に入学した彼女にとっては何か縁のようなものを感じ、震災資料専門員としてセンターで働くこととなる。
そこで、日本における防災の第一人者である河田惠昭教授に出会う。人と防災未来センターのセンター長であり、京都大学の防災研究所、巨大災害研究センターのセンター長も務める河田教授は、彼女が、16万点ほどある震災の資料の収集や整理にとどまらず、施設の立ち上げに精力的に取り組んでいる仕事ぶりや折衝力を見て、自分の研究室での研究を勧める。そうしてセンターに一年間勤めた後、京都大学大学院の河田教授の研究室で防災について学ぶ機会を得る。
「震災であったことを次の世代に伝えていくこともやりがいがあったけど、勤めるうち、『来ることに備える』っていう防災の方に興味が湧いてきたんです。」

 

すべての出会いが意味するもの。

前林教授は「大学院を志す人は、研究者肌の人が多い。でも彼女はとても現代的な、明るくて気さくな人。」と話す。「目の前にあることに興味を持ってやってきただけ」と言う彼女は、「どうしてもコレがしたくて」という意志で全てを選び取ってきたわけではない。しかし、大学時代にデスエデュケーションを研究したことは、彼女の「今」という未来に繋がっている気がしてならない。
舩木さんが進んできた道を振り返ってみると、ひとつの大きな道が広がっていた。行動することによって切り開かれていく世界があり、人々との胸踊る出会いがある。好奇心の幅が、自分の歩む道の選択肢を広げる。彼女を見ていると、そんな気がしてくる。
「知らないってことが、一番怖いんじゃないかな。防災もそうだけど、デスエデュケーションもそう。確かに起これば怖いことだけど、正しい知識があれば、事実を受け入れる気持ちの準備ができるよね。だから何でも知りたいの。」
彼女との出会いで、私は普段考えることのなかった「防災」への意識がほんの少し高まった。非日常と思ってしまえば、目をそらすことは簡単。目をそらさないで、現実を見つめる。これは、防災だけではなく、自分の未来にも言えることではないだろうか。
「将来の目標?今のことだけに一生懸命ですよ。」と話す彼女のやわらかな笑顔は、今を見つめながらも、常に未来へ向けられている。
人生は、過程があってこそ未来があり、その一歩一歩の歩みこそが、自分という人間の歴史の一部となっていく。 今まで自分が生きてきた時間の中には一ミリの無駄もないのだ。全ては繋がらずして、繋がっている。

 

卒論ダイジェスト

DEATH EDUCATIONについての一考察

私たちが子どもの時に与えられる”死”についての情報は少ない。では、子どもにどのような形でのDEATH EDUCATIONがふさわしいか、またDEATH EDUCATIONの意義とは何か。
第1章では、日本での死に対する意識に触れ、日本と他国のDEATH EDUCATIONの現状を述べている。また、第2章に続く形で、死と教育についての問題を提起している。
第2章、第3章では、DEATH EDUCATIONに関する絵本を紹介している。そしてここでは、子どもにとっての死とDEATH EDUCATIONについても論じられている。
最後に、学校の授業にDEATH EDUCATIONを取り入れることの難しさを述べながらも、死を意識し力の限界を知ることで、命の大切さや、弱者へのやさしさが生まれる。そして、やさしい社会づくりはDEATH EDUCATIONを通して可能であるとまとめている。