2011年11月号

今日の自分は、明日の自分より1日若い

テテテンテンチントン、ドドン。26歳のとき、一念発起してはじめた三味の音が、鉦や太鼓とともに繁昌亭で鳴り響く。
(文 串田 綾香・写真 沖野 鈴)

 

林家笑丸が高座に上がりお辞儀をする。あうんの呼吸で演奏が終わると、「音曲質屋」がはじまった。音曲を聞くことが道楽の質屋の旦那が、客の芸に対して金を貸す。芸を預けているあいだは他で演じないようにと言う。噺が展開していくと、笑丸が歌を歌いながら紙切り芸をしたり二枚扇の踊りをしたりと、通常の落語とは少し趣が異なるネタだ。芸がはじまると三味線と太鼓がにぎやかに盛り上げる。
ここは「天満天神繁昌亭」、2006年にできた上方落語唯一の寄席である。大阪大空襲以来60年間絶えていた落語専門の小屋を復活させるために、上方落語協会や地域の商店街が、市民や各方面に呼びかけて作られた。ここで出囃子やハメモノを演奏する三味線方として活躍する「はやしや美紀」さんこと寺西美紀さんに会いに来たのだ。
お昼の公演が終わるのを繁昌亭内の休憩所「輪茶々々庵」で待っていると、あざやかな水色の着物に身を包んだ寺西さんが現れた。
「私たち演奏家は裏方だから、実際に演奏するときはこういう格好はしてないんですけどね」
写真を撮ると伝えていたのでわざわざ着てくださっていたのだ。今日の出来映えを聞いてみると、「弾いていて、満足いくことはなかなかないですね。むしろ、やればやるほどなくなっていく感じ」―――艶やかさと心意気、「粋」とはこういうことなのだろう。

 

上方落語の殿堂で三味線を弾く

寺西さんは6週間ごとに1週間、繁昌亭で三味線を弾いている。他にも、京都の祇園花月、動楽亭や八聖亭といった個人がつくった小屋や神社やホテルなどで開かれる落語会でお囃子として活動している。
出囃子には、リズム担当の「鳴物」と呼ばれる太鼓とメロディ担当の三味線が用いられる。古くから演奏されている曲もあれば、流行りの音楽や洋楽、アニメソングもある。出囃子は噺家のテーマソングのようなものだから、たとえば桂米朝なら「都囃子」、笑福亭仁鶴なら「しょうじょうくずし」というように一人ひとり違うのだ。今では、出囃子のレパートリーは200曲を超える寺西さんだが、日々の練習は欠かさない。レパートリーが増えたぶん、練習量も昔に比べ増えている。夜遅くなったときでさえ、「忍び駒」をつけて、音を小さくして練習する。
三味線は弦が3本。それを撥ではじいて演奏するのだが、その具合が難しい。
「弦に当てようとすると、上手に鳴らない。でも、当てようとしないと、当たらない。これが難しい。途中に弦があったね、っていうくらいがいちばんいい」
「三味線三年、琴三日」という言葉がある。琴がたったの3日で弾けるはずもないだろうが、要するに三味線は手間ひまかかる楽器なのだ。

 

6人の演芸家を輩出した落研

「好きなことを仕事としてやろうと思ったわけではなくて。自分がやりたいことはなんだろうって、それをずっと考えて…。それで結果的にこの仕事に就くことになった」と寺西さん。なにがどうなってプロの三味線弾きになったのだろう。
寺西さんは1992年、人文学部に入学し、落語研究会、通称「落研」に入部した。残念ながら今は休部になってしまったが、1983年には中尾正人(桂坊枝)と山澤由江(お囃子[2010年没])が落語界入りした。寺西さんが在籍していたころも、先輩である畑山昌利(桂三若 1994年卒)、小池直樹(桂三ノ助 1995年卒)、三成忠司(桂三弥 1997年卒)の3人がプロの噺家になるという、かなりコアなクラブだったのだ。
学生時代の寺西さんの芸名は「春の家ぺきん」。同じく広島出身のタレント「ゼンジー北京」からとられた名前だという。名前は代々、先輩がつけるのが伝統だった。
「今でも、プロになった落研の先輩から『おい、ぺきん!』って呼ばれます。事情を知らない周りの人は『えっ、誰?』ってなるし…。こんなに尾を引くのなら、もっと慎重に名前をつけてもらえばよかった (笑)」
はじめて舞台に上がったのは、1年生のときの大学祭。「動物園」というネタで落語デビューを果たした。本番前はものすごく緊張したが、いざ舞台に上がると落ち着いたそうだ。落研の「学院寄席」や9号館メモリアルホールでの「ちょろまか寄席」で演じるようになった。ときにはセリフを忘れることもあったが、途中で止められないため、オチにつながるキーワードだけ入れて、あとは無理やりでも話をつなげ最後まで持っていく。なにがあろうがどうにかして最後までやり遂げるというプロ精神はこのころ培われた。
もともと「楽しい人が多そうだから」という理由で入った落研だったが、そのおもしろさにハマり、将来は落語にかかわる仕事をしたいと思うまでになった。ただ、プロの噺家ではなく。
「落語は好きだったんですけど、噺家になる気はなかったですね、広島出身なので」
当時の落語事情は、地方出身者にとって厳しいものだった。なまりのせいで、門前払いされることもしばしばあったからである。「噺家がだめなら、三味線ならどうだろう」と思うようになった。しかし、落研で使っていた出囃子はテープに吹き込まれた音源。習おうにも、どこへ習いに行けばいいのかわからず、そのまま時は流れた。

 

紆余曲折の末、染丸師匠に弟子入り

就職活動をはじめるころ、実家の酒屋をコンビニにする計画が持ち上がり、そこで働くことになった。しかし、卒業後、地元に戻ってまもなく計画は白紙となる。知り合いから石油元売り大手・中四国支店の労働組合の仕事があることを教えてもらい、職を得た。仕事は責任もなく楽。そのうえ給料もよく休日出勤もなかった。しかし、そんな生活に疑問を持ちはじめていた。
「仕事はお金のためと割り切って、普通に働いてお金をもらう―――それが幸せだと思う人もいるけど、私の場合、なんか違うなと」
落語にかかわるなにかをしたい想いが再び首をもたげ、2年足らずで退社し大阪へ。三枝師匠の弟子になっていた先輩たちのコネで、個人事務所で働かないかという誘いもあった。しかし、迷いの末に出た答えは、大学時代に憧れた三味線であった。
安定した生活から食べていけるかどうかもわからない未知の世界へ。葛藤はなかったのだろうか。
「迷いとかはぜんぜんなかった。親も反対はしなかった。何事もやってみないとわからないし。できなかったら、それはそれでしょうがない」
お囃子の仕事にはなんの保証もない。怪我をすれば仕事はなくなり、もちろん退職金もない。常に仕事があるわけでもない。誰か1人やめれば、別の誰かがそのぶん儲かるというシビアな世界。実際、プロの噺家になっていた先輩から、「食っていけない」と言われた。それでも、気持ちは揺るがなかった。
三味線への道を志してまずはじめたのは、食べるための働き口を探すことだった。当時は繁昌亭のような定席はなく、噺家はそれぞれが落語会を開いていた。それ自体も少なく、噺家もお囃子もそれだけで食べていくのは困難だった。お囃子だった落研の先輩である山澤さんも薬剤師で生計を立て、三味線を弾いていたそうだ。そんなとき、落研時代の先輩が起業するからと声をかけてもらい、事務員として再就職した。三味線のほうは、どこかに弟子入りするにしても撥の持ち方ひとつわからない状態ではまずいと思い、少し習った。そして山澤さんに、プロになりたいという意志を伝え、弟子入りを頼んだが断られてしまった。そのかわり、山澤さんの師匠である落語家林家染丸が自宅で三味線教室をやっているからと連れて行ってくれた。
染丸師匠は噺家でありながら、三味線や寄席囃子の研究、日本舞踊もやるマルチな人だ。教室にはプロ志望の人だけでなく、趣味で三味線をやっている人も来る。寺西さんもそこで週に1度、マンツーマンで手ほどきを受けた。習いはじめのころは、撥の持ち方、当てる位置を正確に身につけられるよう毎日練習を欠かさなかった。弾けるようになると、落語会のそでで一緒に弾かせてもらうようになった。「100回の稽古より、1回の本番」という言葉がある。どんなに練習するよりも、本番を1回経験するほうがより身につくということである。もちろん、その本番の陰には、何百回の練習が必要だ。食べるための仕事は多忙を極め、両立が困難になり2年ほどでやめた。

 

厳しさがやり甲斐に

腕とやる気を認められ、わずか3年でプロのお囃子としてデビューした。ただ三味線が上手、というだけではプロにはなれない。実際に教室に通う人の中には、子どものころからやっていたという凄腕の人もいる。しかし、その人をプロにさせる気はないというのが染丸師匠の考えだそうだ。うまく弾くことはもちろんだが、なにより大事なのは気持ち。お囃子としての仕事は噺家との信頼関係が重要になってくる。仕事はおもに噺家から回ってくるからだ。
「『落語会が終わってからの打ち上げでお酒を飲まないとアカンから、それに付き合える寺西さんで』ということもある。そんな理由か~い、とか(笑)」
お囃子は演者を「はやす」という意味である。その言葉のとおり、自分がいることで絶対に演者にプラスになる存在でいたいと語る。
「この仕事は、できてあたりまえ、完璧を求められる。よかったら誉められるけど、ダメならダメで容赦ない。しんどいこともある。けど、そういう厳しさは事務的な仕事をしていたころにはなかったからね」
努力の甲斐あって今年の4月、「はやしや」の名前をもらい、「はやしや美紀」となった。
「26歳になってからはじめたことに対して、スタートが遅すぎると言う人もいました。でも、もう12年になるしね」
夢を見ることもなかった、夢を見ても実現できなかった、そういう人たちが夢に向かおうとする人にブレーキをかける。生半可な気持ちを戒める意味があるのだろうが、実のところは誰もやってみなければわからないのだ。実際、30歳を過ぎてから落語をやろうという人もいる。寺西さんの同期には、彼女の親と同じくらいの年の方もいるらしい。
「今日の自分は、明日の自分より1日若い」―――桂三枝師匠もよく言っていたそうだ。何事にも遅いということはないのかもしれない。

 

※出囃子
歌舞伎舞踊などでは、長唄で、唄方と三味線弾きとが舞台に出て、観客に姿を見せて演奏することを言うが、寄席では芸人が高座へ上がるときに演奏する囃子のことを指す。囃子とは、能・狂言・歌舞伎・長唄・寄席演芸などで、拍子をとり、または気分を出すために奏する音楽のことを言う。
※ハメモノ(嵌め物)
上方落語の途中に入れる下座の唄や三味線を中心とした演奏。

 

 

天神さんと天神橋商店街

「天満の天神さん」と呼ばれる大阪天満宮は、菅原道真を祭る神社として949年に建立された。室町時代では連歌会などが開かれる文化サロンとなり、江戸時代には井原西鶴や近松門左衛門などを輩出するなど、上方文化の中心であった。昭和初期には、天満宮界隈には8軒もの寄席が並び、落語や講談、芝居でにぎわっていたが、大阪の大空襲で消失した。
7月24、25日に行われる天満天神祭は、日本三大夏祭りのひとつと言われている。 天神橋商店街は、南の大川、北の淀川から「大阪天満宮」の参道だった通りに店が集まったのがルーツ。南北2.6キロにもおよぶ日本一長いこの商店街には、600軒もの商店が軒を連ねている。