2011年3月号

夢に賭けた4年間

入学後、アナウンサー学校の広告を見て、「江夏21球」の感動と目立ちたがりキャラが結びつく。目指すべきものが見えた瞬間だった。
(文 森本千晴・写真 深澤夏紀)

 

「うちの家のテレビが昨日故障して画面が映らなくなってしまって…」 軽快なテーマソングに続いてトークがはじまる。標準語で語られるベタな話題にアシスタントがテンポよく応えていく。誠実さや親しみが伝わってくる声の主は、石橋真さん。お昼間のラジオ番組「道盛浩のバリシャキNOW」の金曜のパーソナリティーを務めるアナウンサーだ。
広島駅から広島城の方向に歩くこと約20分。官公庁の建物がならぶ落ち着いた雰囲気。お城の堀のそばに石橋さんの職場である中国放送がある。屋上にアンテナがそびえ、レトロモダンなビルのロビー。受付で要件を告げるとほどなく石橋さんが迎えてくれた。いいひとオーラ漂うさわやかな笑顔と声、初対面で強ばった私たちのこころがほぐれていく。

 

笑いをとって目立つことが快感に

合格するあてもないのに記念に受験するほどの不動の人気を誇るマスコミ。その中でもいちばんの花形はなんといってもアナウンサー。ちょっとやそっとで入り込めないこの業界に、どうやって入り込めたのだろう、その前になぜこの業界をめざしたのだろうか。その原点は小学生のころに遡る。
「子供のころ、赤面症だったんです。小学校の5年生の時だったか、クラスのみんなの前で話をすることになって、なにを言ったのか覚えていませんが、自分の話した言葉でクラスのみんなが笑ってくれた」
その瞬間、石橋少年は今まで苦痛だった目立つことが快感に変わった。それまでの反動でとにかく目立ちたいと思うようになったのだ。そしてもうひとつ、後にアナウンサーをめざすきっかけとなった出来事がある。
1979年のプロ野球日本シリーズ第7戦(近鉄バッファローズ対広島カープ)において、日本プロ野球史上屈指の名勝負があった。広島カープ投手の江夏豊が9回裏に1点リードながら無死満塁というピンチを背負いながらも0点に抑え、球団史上初の日本一を決めたという手に汗握る試合だった。これは「江夏の21球」と呼ばれ、野球ファンの間では今なお語り継がれている伝説の戦いだ。
「この試合は、2つ上の兄と共に、テレビの生中継で見ました。私が小学校1年生の時でした。本当にワクワクドキドキしました」
目立ちたい願望は消えることなく、高校時代、「人生の最後には新聞のお悔やみ欄に載るくらい」に有名になりたいと思うようになったものの、その手段を探しあぐねていた。

 

めざすはスポーツアナウンサー

日清戦争以来軍都として発展し、機械工業や商業が盛ん。史上初の原子爆弾が投下された。人口約100万人で中国・四国地方で第1位の政令指定都市。

「大学に行っても高校の仲間だけで固まってしまうと、過去もいっしょに引きずっていってしまう気がして。そういうのはいやだった」
すでに地元の大学に合格していたが、中学・高校となにか目標を定めてもなかなか達成できなかった過去の自分から脱却するため、人文学部を選んだ。歴史がないぶん、いろんな可能性を秘めていると思ったからだ。合格して下宿を探しに行った時、「なんで新幹線で神戸じゃなくて西明石で降りるんだろうなー」と多少の不安も感じながら、大学生活をはじめた。新生活も多少落ち着いたころ、大学の掲示板に貼ってあったポスターに目がとまった。生田教室というアナウンサー養成学校の募集広告だ。
「俳優もスポーツ選手もムリ。でも、スポーツを伝える側だったらできるかもと思った、これだけは貫いてやろうと」
有名人になりたい願望と頭に深く刻み込まれた「江夏の21球」の鮮烈なイメージ。このふたつが結びついて、スポーツアナウンサーという目標を発見した瞬間だった。
生田教室は大阪にあるアナウンサーを養成する有名な学校で、多くの受講生を日本各地のテレビ局へ送り出している。ちなみに人文学部1期生で報道ステーションなどの番組でナレーターとしても活躍している声優、仮屋昌伸さんもそのひとりだ。
「そう簡単になれるもんじゃないって思ってました。けど裏付けのない自信があった、俺はできる!みたいな」
石橋さんは、早速手続きを済ませて1年生の時から週に2回、大学の授業が終わってから電車に揺られて新大阪の学校まで通った。早めに着いた時は発声練習をして授業に備えた。授業時間は6時から9時まで。発音や発声、読む練習といった基本から、原稿の作成やスポーツ実況などの応用までを関西のいろんな大学からやって来た学生に混じって学んだ。
「アナウンサーとしての技術的な勉強もあるけど、人間教育みたいなものが多かった。社会では目上のひとと話すことのほうが多いと思うんですけど、そういうひとたちと話すにはどうしたらいいのかとか、それは取り繕ってできるものなのかとか…自己啓発みたいなものですね」

 

どん欲な学生生活

人文学部では、人間行動コースで文化人類学を学んだ。 「人類学はいろんなことが学問の対象になる。たとえば、明石焼はどのようにして生まれてきたのかとか、なぜこの町にはこんな文化が伝わっているのかとか、そういうことをフィールドワークして調べました。仕事で、自分の足で取材したりしゃべったりしてるけど、文化人類学の授業でやったようなフィールドワークと同じことしてるんですね」
大学の勉強もアナウンサーになるための勉強もしながら、手抜きができない体育会系のクラブである躰道(たいどう)部に入部。昼休みは練習に没頭した。さらに、休日には明石の漁網店で網を編むアルバイトもした。
初志貫徹。忙しい生活だったが、アナウンサーになるための練習は手を抜かなかった。周りのひとにはアナウンサーをめざしていることを公言し、九州のなまりと関西の独特のイントネーションを正すためいつも標準語でしゃべった。スポーツアナウンサーといえば実況放送。その練習をするために、甲子園球場や二軍の試合が行われる球場に行って、客がまばらな場所に陣取って実況放送の練習もした。
「はじめは大きな声を出すので周りが見るわけですね。でも、それも慣れてくると間違えたら指摘してくれたり(笑)」
充実した学生生活を謳歌していた3年生後期の授業が終わろうとしていた1月17日、阪神淡路大震災が起こった。有瀬キャンパスがある神戸市西区は甚大な被害は免れたものの、ライフラインが寸断され大学の機能も停止し、試験どころではなくった。
「どうしようかと考えました。報道の世界をめざすのであればこういうものはしっかり目に焼き付けておくべきと感じ、その日のうちに震源地へ行きました」
そう思ったのは、3年生の夏休み、伊谷先生や寺嶋先生といっしょに行った与那国島でのゼミ合宿で、訪れる直前に現地を襲った台風による甚大な被害を目の当たりにし、フィールドワークしたという経験があったからという。
原付のバイクといっしょにたこフェリーに乗って、岩屋から約20分ほどのところにある震源地の北淡町に向かった。報道関係者でもなんでもない単なるマスコミ志望の学生の分際で、災害の状況を写真で撮るということになんの意味があるのか? そんなことも考えたが、「見たもの聞いたものはすべて自分の経験になる」と思い、通った。
ゼミの指導教員だった伊谷先生のアドバイスもあって卒論では、震災が地域住民にもたらしたものを取り上げることにした。震災からしばらく経て落ち着きを取り戻しつつあった北淡町に通って、罹災した地域住民に聞き取り調査をおこない、「阪神大震災をめぐる被災住民の平等意識」という題目の卒論を仕上げた。

 

バク転して後悔なし

3年生の春休み。がんばってきたその成果を試す時がやってきた。石橋さんが就職活動をはじめた年はすでに就職氷河期がはじまっており、就職活動は今のように厳しい状況であった。ただ、当時は企業と学校側とで結ばれた「就職協定」がまがりなりにも存在していたため、採用活動がいちばん早いと言われているマスコミ関係でも、実際の選考は3月ごろから始まった。  放送局の選考は、東京のキー局からはじまり、大阪、名古屋、政令指定都市のローカル局へと続いていく。マスコミ志望の学生たちは、内定を勝ち取るまで中央から地方へと集団移動しながら転戦していく。石橋さんは在阪の局からそれに加わった。インターネットが普及していない時代。資料を請求し、同封されている志願書などの書類に記入、さらに、与えられたテーマについての作文(たとえば「今一番興味をもっていること」など)を書いて放送局に郵送するというプロセスで、12社ほど受験した。
「最初に内定が出たところに縁がある」から、そこに行くと決めて臨んだ就職活動。面接ではスポーツをやりたい、野球実況をやりたいと、「江夏の21球」を見た時の感動を言葉にしてアピールした。
「もちろん中国放送でも言いました、そこに偽りはなかったから。それに自分が学生時代に取り組んだことを伝えようと思って、躰道部で鍛えたバク転をやらせてもらいました。結果はどうなってもこれで後悔はないというやりきった感じがありましたね」  バク転というパフォーマンスも功を奏したのか、広島カープの本拠地にある中国放送に合格した。

 

自然体のトークの裏側にあるプロ根性

巧みなトークに聞き入っていると取材時間も終盤に。あわてて、入社してからのことはすっ飛ばして今の仕事のことを聞いた。
「スポーツアナウンサーをやりたいということでこの世界に入りました。けど所帯の小さい地方局ですからね。もう、なんでもやってます。そのほうがたいへんなところもあるけど、おもしろい」
「バリシャキNOW」のパーソナリティーになったのは去年の4月。その他にも、ニュースやCMのナレーションなど、アナウンサーとしての仕事だけでなく、取材もするし原稿も書く。
石橋さんはテレビとラジオに出ているが、テレビは地方局ということもあって、できることが限られている。その点、ラジオ番組は自社制作なので、自分で演出もできるし、しゃべれるし、おもしろいそうだ。
「ニュースを受けてコメントを添える場合があります。ただ機械的にするんじゃなくて、たとえば夕方であれば、リスナーは帰宅途中のドライバーが多い。そういうひとたちはなにが知りたいのか。まず、今日なにが起きたかを伝えることが先決であり、自分の意見を言うことが先ではないんだろうなと思ったり…。自分の意見を押し通すのもひとつですけど、あえてそれは言わずリスナーに考えてもらうという方法もある」
不特定多数の人々に情報を届けるマスメディア。年齢も違う、性別も違う、価値観も違う。そんないろんなひとが、いろんな考えをもってラジオを聞いている。そういう状況を考えると、自分を出して、自分の考えを伝えることに躊躇しないのだろうか。
「ちょっと間違えても、ほんとびっくりするぐらい反応が返ってくることがあります。けど、正解はひとつじゃないケースもいっぱいありますからね。自分自身、これがいいと思ってやってても、突然違うかもと思いはじめたり…。ひとの意見を聞くことも大切ですけど、それが過ぎると自分がなくなってしまう。だから、言われることはありがたい、でもこれだけは譲れないというのはどこかで持たないと」
こんなことを考えていることなどおくびにも出さず、バリシャキNOWの石橋さんは、まるで自然体でしゃべっているように聞こえる。これがプロの仕事というものだ。

 

伸びしろが感じられる人間に

今、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌といったマスメディアは、インターネットなど新しいメディアの台頭により他の業界と同じく厳しい状況にある。そういう中で、今、どういう人材が必要とされているのか、就職氷河期を乗り越えてきた先輩として、アドバイスをもらった。
「マスコミは狭き門っていうのはありますけど、まず受けないとはじまりません。雇う側からの立場で言うと、このひとは伸びしろがあるなとか、このひとと仕事したいなとか、そう思わせるほうがいい。それにはひととして魅力が必要。大学でどんどん魅力を肉付けしていってほしいですね」
「アナウンサーにしても技術的なことや専門的なことは数年で身につく。そこで問われるのは人間性」という石橋さんの言葉が胸に響いた。はじめに感じた「いい人オーラ」は、学問であったり、課外活動であったり、アナウンサーになるための取り組みであったり、バイトであったり、大学時代のいろんな経験が肥やしになってるような気がした。人生、無駄なことはなにひとつないのだ。大学生活でやり残していることがまだまだあると思い知らされた取材だった。

 

※道盛浩(みちもりひろし)のバリシャキNOW
中国放送(RCCラジオ)で放送されているラジオ番組。ネーミングは、前身の番組「活力増進アワー バリッとシャキッともう一丁!」による。交通情報や天気予報、ニュース、スポーツ、エンターテイメント情報、リスナーからのやりとりなどを盛り込んだ約3時間のラジオワイド番組。
※株式会社中国放送
広島にある民間放送局。1952年にラジオ放送、1959年にテレビ放送を開始する。本社は広島市中区基町。テレビはJNN系列。ラジオはJRN・NRN系列。経営理念は「RCCはひろしまの未来づくりに役立つ放送局であることを約束します」。