2016年3月号

古くて新しいこれからの生き方を設計する

人文学と建築を行き来しながら建築家になった先輩が描く未来予想図
(文:佐伯 一誠)

 

阪急梅田駅から電車で揺られること約30分、降り立ったのは阪急宝塚線清荒神駅。となりの宝塚駅にはあの宝塚歌劇場がある。線路をまたいで南側はマンションが建ち並ぶ。それに対して北側は背景に山が迫りいくぶんひなびた田舎の風情。厄除け・開運で有名な「荒神さん」への参道が駅から見える。改札付近で待っていると奥田さんがやってきた。挨拶も早々に案内されるがままあとをついていく。  なだらかな坂道が続く参道を5分ほど歩いただろうか、途中、左に曲がって奥まったところに昭和の時代、文化住宅と呼ばれていた木造モルタル塗りの古びた長屋が建っていた。
「奥田さんが作った自宅でインタビュー」というはずだったのに・・・
ドアを開けると、雑な作りの外装からは想像もできない空間が広がっていた。正面は一面が大きな窓。緑が茂り小川がながれる景色が見える。室内に目をやると木材を用いた装飾を排したデザイン。まるで建築雑誌に出てくる家のようだ。
「おカネがないから、そのぶんテマもヒマもかけました。それだからよけいに愛着もわく」
床も棚も余っていた床材だし、味のある土壁は友人の助けをかりて自分たちで塗ったそうだ。なるほど、これがリノベーションというやつか・・・。

リノベーション前と後、床と天井に国産の杉を用い、土壁は友人たちに手伝ってもらって塗った。

 

 

周囲になじめなかった入学のころ

歴史や地域の祭りやモノづくりなど、いろんなことに興味あるものの具体的になりたいものがなかった奥田さんは人文学部が謳う「幅広い学び」に惹かれ入学を決めた。しかし、現実に授業がはじまると奥田さんが思い描いていた大学のイメージは崩れていった。遊ぶ話ばかりのうわべだけの関係の同級生、教える気があるのかないのかわからないような講義・・・。
「1年生のころは、先生はなぜもっと教えてくれないんだ、学生はなぜみんなふらふらしてるんだとか、いつももやもやしていました」
そのうち人類学など興味深い学問に出会い、学ぶことに興味が涌いてきた。しかし、今度はまた別の悩みが頭をもたげてきた。2年次生のとき、就職活動を終えた人文学部の4年次生や卒業生の話を聞くイベントに参加した。先輩の話を聞いて、卒業後のことを考えるようになった。今、学んでいることが将来にどうつながるかと。
当時、奥田さんの家には寝たきりの祖父がいた。毎日庭を眺めぼんやりと過ごしている祖父を見て、体が不自由になっても残された機能を生かして気持ちよく生活ができるような部屋があればと思い、間取りやスケッチを自分なりに描いたりするようになった。 「これが仕事になれば楽しいんじゃないか」
3年次に進級する前に退学して専門学校で建築を学ぶ──その気持ちを親にぶつけると、大学を休学すること、学費も含め自分で責任を持つこと、という条件付きで納得してもらった。そして3年次から休学、大阪にある建築の専門学校に2年間アルバイトをしながら通うことになった

 

社会人の同級生とともに

専門学校の求人で見つけた建築事務所で夕方までバイトし、夜9時ごろまで専門学校で学ぶ生活がはじまる。学ぶ仲間は建築家をめざす看護師さんだったり、やっぱり建築に携わりたいと一念発起して学び直すサラリーマンだったりと、職業も年齢もばらばらな人生の先輩たちだった。週のうち2日〜3日は授業後、先生もいっしょになって夜遅くまでやっている近所の飲み屋に寄って建築のことを熱く語る。社会に出たのち再び学び直す仲間たちの貪欲さと気迫に圧倒されながら、瞬く間に日は過ぎていった。
専門学校は、就職に必要な資格や技術を取得することを目的とした学校である。入学当初、奥田さんはここで2級建築士の受験資格をとったあと、どこかのハウスメーカーに就職して…と漠然と考えていた。しかし、学ぶうちに、建築は構造や機能といった理系の知識や技術はもちろん、法律、そして人類学から歴史や芸術などまさに人文学的な幅広い知識が求められる仕事であることがわかった。と同時に、施主、地域の人々、施工業者、行政など、いろいろな人とかかわりあいながら竣工までを見届ける建築家という仕事に魅力を感じた。そして、「今、自分に必要なのは人文学部の学びだ」と2年間の寄り道でそれに気づいた奥田さんは、迷わず復学した。

 

「教わる」から「学ぶ」へ

3年次生の夏休み、トルコへの旅。建築と文化を肌で感じるため1カ月ほど滞在した。

3年次生の夏休み、トルコへの旅。
建築と文化を肌で感じるため
1カ月ほど滞在した。 「結局、大学は自分から動かなければどうにもならないところ。逆にいえば、自分から動けばどうにでもなる」
学ぶ意識は入学したころと180度変わっていた。ゼミの先生にかけあって授業の1コマを使ってトルコ旅行記のプレゼンをしたり、仲間を募って「卒業論文研究会」というサークルを発足させ、充実した論文を書くために矢嶋先生の協力も得て活動した。
その一方では建築家としての第一歩を踏み出していた。古家のリノベーションである。
住宅に対する考え方は欧米と日本とでは異なる。欧米では昔から住宅はストックとして捉えられてき た。つまり一度建てたら価値が下がらないように住む考え方である。それに対して日本では、住宅は古くなればなるほど価値が下がるもので、一定期間を経れば建て替えるもの、という考え方が一般的であった。しかし、経済の成熟化と持続可能な循環型社会へと変化していく中で、欧米で普及していた「リノベーション」という考え方が日本でもじわりじわりと浸透していく。リノベーションとは、既存建物の機能や用途を変更し、大規模な改修を施して新しい建物へ再生させる手法のことだ。たとえば、昭和的な風情を残す古びた木造建築を、その持ち味を今の時代に読み替えて「古くて新しい」居場所を作る。
手入れをすればまだまだ住める住宅が、惜しげもなく壊される現状に疑問を持っていた奥田さんは、リノベーションの可能性に興味を持ちはじめる。

 

大学時代に手がけた建築家としてはじめての仕事「長柄の家」のスケッチと実写

復学して1年。知り合いから「借家を持っているが、前の借家人の使い方がひどくぼろぼろになって借り手がつかなくて困っている、限られた予算でなんとかならないか」と相談を受けた。通常であれば、雨漏りの修繕と壁紙と床の張り替え、清掃をして終わりくらいの金額だったが、施主も協力してセルフビルド(自分たちで施工すること)をするとコストを安く抑えてより素敵な場所を作ることができると提案。建築家としてはじめて仕事を手がける。
「自分の想いが強すぎて報酬以上に仕事をしてしまい最終的には完全に赤字でした」
ビジネスとしては失敗だったが、フルリノベーション(内装を総作り替え)ができ、作品として満足のいくものができた。
卒論ではリノベーションについて自分なりの考察を深めるために、尼崎の農家建築が時代や生活や地域の地理的条件の変化にあわせて住居としてどのように住み継がれていくかという研究を行った。

 

僻地の旧小学校をカフェに

熊野川の氾濫で被害を受けた直後の旧九重小学校

卒業後、建築のための実践的な知識を学ぶために、専門学校時代にお世話になった先生の設計事務所に就職した。そこは「アトリエ系」の事務所だった。アトリエ系とは、少数の所員で、作家性が強い設計を行う建築事務所だ。住宅設計をメインで行っているところが多く、設計と施工監理を行う。ハウスメーカーのような決まったデザイン設計を提供するのでなく、より芸術色の強い建築をするのがアトリエ系の特徴だ。
週末の休みを利用して、災害ボランティアに取り組んできたのが縁で、廃校リノべーションに携わることになった。場所は世界遺産熊野古道がある和歌山県新宮市熊野川町、旧九重(くじゅう)小学校だ。和歌山県は毎年台風の被害が多い。2011年、紀伊半島を襲った記録的豪雨により熊野川が氾濫し旧九重小学校は床上2メートルぐらいまで浸水してしまう甚大な被害を受けた。
このとき取り壊される予定だった旧九重小学校を地域の人々が集う場にしようと立ち上がったのが、都会にない興味深い暮らしを求めて過疎の村に引っ越してきた若者たちだった。彼らは「山の学校」というNPOを作って、水害に耐えて残った小さな木造校舎を蘇らせる活動をはじめた。それに興味を持った奥田さんは、設計者として、より心地良い空間の構成と完成後の使い方を含めたプレゼンを行った。
地元産の材料や廃材を使い、ボランティアや関係者で校舎の中にカフェを作るプランは採択され、奥田さんは設計事務所を辞めこの仕事に専念する。
約1年後、2013年にカフェ「Bookcafe kuju」がオープン。そこに京都出身の夫妻が加わり、パン屋「パンむぎとし」ができた。そして、2014年には京都の書店の協力で書籍コーナーが設けられた。「日本一僻地の書店」と話題になり地域外からの客で賑わっている。

 

田舎暮らしに必要な創造力と実行力

「田舎暮らしは悠々自適に見えるけど、生き抜くためのしたたかさや知恵がいる」
奥田さんはいっしょに取り組んだ移住者の人たちの暮らしぶりに触れ、そう思った。「会社の歯車がいや、都会での生活がいや」という動機だけで田舎暮らしはできない。田舎には一定の収入を安定的に得る仕事が少ない。いくら質素に暮らすにも、生きていくためにはある程度の稼ぎが必要だ。「田舎に住んであ れをしたいこれをしたい」と、溢れるようなアイデアと実行力がいる。そこで、移住者の人たちは、農業はもちろん、行政のサポートや家庭教師など、いろんな仕事をかけ持ちして収入を得る。どこかでハチミツ作りをやっていると聞けばすぐ自分も試してみたり、趣味の釣りで得たノウハウを生かして釣りのインストラクターをやったり、いろんな仕事をしながら創造的に生きている。
「会社で大きな仕事をやり遂げたり、地位を得たり、お金を多くかせいだり、仕事だけを自己実現の手段にしてしまうと、暮らしがおろそかになって、結局お金でそれをカバーしようとする」
勝ち組とか負け組とかとは違う世界。そこで生きていこうとする人たちを建築家の立場で応援する。それが奥田さんのスタンスだ。その手段がリノベーションやセルフビルド。建築は潰すのではなく時代に合わせて変えていく、そのほうが家を新たに建てるよりもいい感じ! そしてなによりもふところに優しい・・・。
とはいえ現実はそう甘くない。まだ経験も実績も乏しい奥田さんにまわってくるのは、予算はないけどチャレンジングな仕事。
「理想のかたちを追い求めるとお金がかかってしまって、それ相応の収入にはつながらない。正直、この仕事は好きでないと割りにあわないですし、逆に好きだからこそできる。でも暮らしていくためのお金は必要。要はそのバランスをどうとるか」
現在、生活していくために大阪市内の設計事務所に勤務し、奥田達郎建築舎としての仕事は休日しかができない。しかし、奥田さんはそんなことは気にも止めないようだ。
新しい生き方を模索する「山の学校」の人々に共鳴し、金にならない仕事を嬉々としてやり遂げる奥田さん。採算やリスクだけを考えているだけではブレイクスルーはない。先が見えない不安定な世の中だからこそ、腰を据えて攻めていくことの大事さを学んだ。

ブックカフェに様変わりした旧小学校の校舎