2006年3月号

チェロと僕と生きること

弾かなければならなかった10年、弾くことをやめた10年。そして再びチェロを弾き始めた―自らの意思で。
(文 一瀬千紘/写真 山脇慎也)

 

照明が暗くなると同時にざわついていた店内が静まりかえる。ピアノの音が響き渡る。チェロの低い響きが絡み合いながら、メンデルスゾーンの「無言歌」がさらさらと流れていく。 ざっと70人近くはいただろうか。肩が触れるほどの間隔で並べられた椅子。プレイヤーの吐息さえ聞き取れるほど狭い空間の張りつめた空気が、どんどん和らいでいく。ミューズに捧げるがごとく全身全霊を込めて奏でる彼の表情は神々しい。 元町商店街にある「喫茶アマデウス」は、週末になるとプロ・アマを問わずクラシックの音楽家がリサイタルを開く知る人ぞ知る名曲喫茶。 目を閉じて調べに身を委ねていると、いつの間にかエンデイングに。弦から弓が離れ音がとぎれる。拍手が湧き起こり、インタビューで見せた屈託のない笑顔が戻ってきた。

 

チェロから離れ音を楽しむ

「息子が生まれたら絶対にチェロをやらせたくて」。 ご自身もフルートを吹いているという母・和子さんに連れられて、薄井少年は6歳からチェロを始める。
ピアノは子猫が鍵盤の上を歩くだけでも音は出る。だが弦楽器、特にチェロは一筋縄ではいかない。まずは弦を押さえる左手の指の正確な位置を身体に染みこませるため、音を出さずに左指を指板に置く練習から始める。これができてはじめて聞くに耐えない雑音から、秩序を持った音が出せるようになる。右手は右手で、弓で同じところを真横に弾く練習を繰り返す。正確な音程を保つために微細な音の高低を聞き分ける耳も育てていかなければならない…。というようにとりあえず音楽らしきものを奏でるに至るまでにはかなりの我慢が強いられる。さらに毎日練習を積み重ねても、それを怠ればあっという間に腕がなまるというデリケートな楽器だ。
家では母がついて毎日1時間ほど練習していたというが、それが半日にも思えるほど苦痛だったという。しかし、そのおかげで基礎的な技術はしっかりと身についた。「いつか弾きたくなったときに基礎さえできていれば、また始めることができると思って」と和子さんは当時を振り返る。
小学校5年生のとき、たまたま菅野博文のリサイタルのチケットが手に入り、聴きに行った。菅野博文は、第5回チャイコフスキー国際コンクールに入賞すると同時に、ソ連作曲家課題最優秀演奏者として特別賞を受賞したこともある実力派。当時は1年の半分をアメリカで過ごし、各地で演奏活動を行っていた。 コンサート終了後、ロビーを出たところで菅野先生に出会い、それがきっかけでレッスンを受けることになる。不思議な縁に導かれるように、まだ小学生であった薄井少年は、月に2回ほど宝塚から東京まで、大きなチェロケースを担いでひとり、新幹線で通った。
「中学生のころ、男子の間ではサッカーが流行っていて。なんとなくチェロやってることが恥ずかしくて言えなかった」
二年生になって、そろそろ高校受験のことを考える時期に差し掛かった頃、親が敷いたレールの上を歩くことに疑問を感じ、チェロをやめて普通の高校に進学することを決心する。
「やめるまでは本当に練習が苦痛でしたから。チェロをやめられることがうれしくて仕方がなかったですね」
高校生になった彼は、ごくふつうの学生生活を送る。
「ラジオとか聞いていていると、『○○さんのリクエストで』とか言うじゃないですか。音楽をリクエストするっていう神経もわからなくて(笑)」
奏でるものとしてしか音楽に関わりを持っていなかった彼にとって、音楽を聴くという楽しみ方は新鮮だった。学校が終わってから、ぽっかり空いた自由な時間にいろんな音楽を聴くようになった。ブルースやロックンロール、R&B、ソウルといったブラックミュージックから、邦楽では忌野清志郎。さらに民族音楽へといろんな音楽を聴き漁る。自らの興味のおもむくままに様々な音楽と触れる中で、彼は再びクラシックに出会う。

「初めて出会った感じがしましたね。クラシックもなかなかやるじゃん、っていう(笑)」

 

社会人になって目覚める

パリのラジオフランス二国間交流コンサートにて、東京シティフィルのメンバーと。

卒業後、いくつか受かった大学の中から人文学部を選び進学。部活やサークルに所属することはなかったが、高校からの延長で音楽はよく聴いていた。同時に、チェロをギターに持ち替え、作曲や作詞をはじめた。人前で披露することはなかったが、友人に頼まれて自主製作映画のための映画音楽を製作したこともあるという。
チェロはといえば、高校受験を機に、たまに地元のイベントなどで声が掛かれば演奏する以外触れることもなかったが、「技術を学ぶというより、芸術家としてスタイリッシュに生きる先生の生き方に触れたかった」ため、高校・大学の夏休みには菅野先生を訪ねていた。
所属した伊藤ゼミでは、毎日のように教授とゼミ仲間とともに震災の爪痕が残る三宮で飲んでは語り合った。日本の芸術・演劇を研究する伊藤教授のゼミには、演劇など表現芸術を志す学生が集まる。ゼミ生であれ卒業生であれ、教え子から「発表をするから」と連絡が来れば時間の許すかぎり見に行く。「芸術に携わりそれを教えてるんだから、当然のこと」と先生。こんな伊藤ゼミは、彼にとってとても居心地のいい場所であると同時に、将来が見えない自分のことを考えさせられるようなところでもあったに違いない。
就職活動の時期、漠然と表現者として生きたいという思いがくすぶってはいたが、大手企業の子会社である倉庫会社に就職することになる。
仕事はトラックの配車係。気は荒いが根は優しいドライバーたちに囲まれ、仕事にはそれなりのやりがいも感じていた。しかし、夜ひとりになると漠然とした不安を感じた。
「就職して半年が過ぎた頃、将来のことを考えるようになったんです。自分の人生これでいいのかと考えたとき、やっぱり表現者として生きたいと。それで、自分をいちばん表現できるものを考えたとき、チェロかなと」
とはいっても10年にもおよぶブランク。日常的な練習の積み重ねが表現力を左右する楽器。堅実な彼は、とりあえず自分の気持ちと能力を試すため、1年間仕事を続けながら自分を試すことを決意する。もし自分の考えるレベルに達することができなかったときは、表現者として生きることはあきらめるつもりで…。
毎朝6時から練習をしてから出社、帰って夕飯もそこそこに練習する生活を続けた。当時住んでいた会社の寮には、防音設備などなかった。
「でもね、ギター始めたんかとか言われて。全然誰も気にしない」
忙しいながらも充実した1年を過ごした後、なんとかやっていけそうな手応えを感じた彼は、プロになるため東京音楽大学に学士入学する。入学後は脇目もふらず、チェロを弾くことに専念した。自分より若くて腕のたつ学生の中で、ブランクを取り戻すための苦労は並大抵ではなかったが、寄り道の効用というものも実感した。
「単に譜面をなぞるだけなら機械。でも再現芸術としての音楽って、実はとてもクリエイティブな作業なんです。役者が台本をもとに演じるように、譜面の中からその音楽の真意を読み取り、いかに聴き手へ伝えるかを考える。そうしてひとつの世界を創り上げる。そのためには、感受性も想像力も必要だし、経験がものを言うことも多い。人文学部の4年間で知らず知らずに身についたことが役立ちました」
音楽大学での総仕上げである卒業演奏会では弦楽器奏者としてトップの成績を収め、29歳で東京音大を卒業する。その後、プロのアンサンブループレイヤー育成を目的とした桐朋オーケストラーアカデミーで研修生としてさらに磨きをかけ、昨年末に東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団に晴れて入団することができた。
「題名のない音楽会」にも出演している東京シティフィルは、創立30年とオーケストラとしてはまだ若いが、アメリカやフランスでコンサートを開くなど世界でも活躍する勢いのあるオーケストラだ。オーケストラ就職難のこの時代に、自分はとてもラッキーだったと彼は言う。と同時に、これも人生の寄り道をして、本当に自分が生きていきたい道を見据えることができた結果かな、とも。

 

捨てたつもりが捨てられなかった。

他の楽器に比べて、チェロは年齢を重ねても続けることができる楽器だと言われる。20世紀最大のチェリストと言われるパブロ・カザルス(1876-1973)は、90歳を越えても現役のプレイヤーだった。
「今はチェロを弾いているから、一生続けたいと思っています。でも、もしかしたら将来は変わるかもしれない。より自分が生かされる道があるならば、そっちに行くと思いますね」
子どものころから親しんだチェロ。いったんはそれから遠ざかり、今度は生きていく糧としてその道を選んだ。
「捨てたつもりだったけど、結局は捨てられなかった。なにかが彼を呼んだのかもしれない。その声を聞くことができたのも、彼の才能。もしかすると彼の人間としてのいちばん奥の部分は、チェロを通してしか表現できなかったのかもしれない」と伊藤教授は語る。
薄井信介、31歳。遅咲きのチェリストは、プロ奏者として、今ようやく第一歩を踏み出したところだ。

 

 

卒論ダイジェスト

歓声という芸術 ― 薄井信介

ライブに集う人々が上げる叫び声を、人は一般に歓声と呼ぶ。薄井さんは、普段何気なく扱われている歓声というものに注目した。彼はその正体について考察し、”歓声”というものに秘められた芸術性を発掘しようと試みている。
第一章では、根本的な音楽の意義や、人間にとって音楽とは何であるかについて述べている。
第二章では、一章で証明したことに基づいて、”芸術”としての歓声をとりあげている。
第三章では、各イベントごとの歓声の違いを指摘し、歓声の芸術性について言及している。
最後に、歓声とは、あるときは芸術の域に達し、そしてまたあるときは何かしらの世界を創造する効果を内包すると述べており、歓声の持つ大いなる可能性について論じている。