Vol.10(2006年3月)
田中 勝
文学との出会い、そして文学に学ぶこと
音楽も文学も哲学もドイツが一目置かれるのはなぜだろう。ドイツ文学を専門とされる田中先生に、文学を中心にそのあたりを聞いてみた。
TEXT 福田さゆり/PHOTO 山脇慎也
ひこばえ
中学時代から高校時代にかけて読書が好きになりました。
それまで本を読まないわけではなかったのですが、中学時代はとにかく本屋へ行って読めそうなものがあればあれやこれやと買ってきては読んでいました。そしてその中でヘルマン・ヘッセの作品に興味を持ち始めました。人間の成長過程を描くのがヘッセの特徴であり、当時は『車輪の下』に登場する10代の主人公の心的葛藤と自分を重ねて読んでいたのかも知れません。また『車輪の下』に出てきた「ひこばえ」という名前をよく覚えています。樹木は植えてそのまま何も手を加えないでおくと自然に成長し大木となるのですが、途中で切ってしまうと横から当然芽を出し枝となりいびつに育ちます。そして、根っこのところを切るとその木は横から下枝を出してきます。それが「ひこばえ」で、『車輪の下』を象徴する存在です。当時は何も分からずとにかく気になった言葉でした。
高校時代はヘッセの他に、現在担当講義で取り上げている森鴎外や夏目漱石、太宰治などの日本の作家を中心に読み、文庫本をポケットに忍ばせる程度でしたが、文学好きでした。もともと「ドイツ文学を読もう」と意識して読んでいたわけではないのでヘッセ以外のゲーテや、シラー、トーマス・マンといったドイツ文学を読むようになったのは大学に入ってからです。
ヘッセからカフカヘ
「ドイツ文学」へ興味を持ってからは大学でも専攻し、修士の時期にヘッセについて研究している時期もありましたが、カフカに出会ってからは徐々に彼の方へ移っていきました。カフカの魅力は彼の作品がどの時代においてもさまざまに解釈ができるところにあると思います。ある特定の時代の出来事を書いてもそれを共有できるのはその時代の人たちだけに限定されますが、カフカの作品にはどの時代でも解釈できる共通の要素、つまり普遍性があります。この普遍性が彼の特徴とも言える「どうとでも解釈できる漠然とした表現」へとつながり、読む人を混乱させたりするのかも知れません。私自身、最初カフカの作品を読んだ時は正直訳が分からなかったのですが、その不可解さを知りたいと思いカフカを専門としていきました。専門はこのようにフランツ・カフカなのですが、講義で取り上げているせいか学生によっては私の専門をゲーテだと思っているようですね。
ゲーテを取り上げているのは、「ドイツ文学の基礎はゲーテである」と言われるほど、彼がドイツ文学に与えた影響が大きかったからです。ゲーテが現れるまではドイツ文学よりフランス・イギリス文学など近隣諸国の文学の方が進んでいたのですが、そこヘゲーテの『若きウェルテルの悩み』が登場しドイツ文学が認められ、ゲーテの作品を読まなきゃいけないと他の作家が思い始めたんです。
ドイツ文学を学ぶ時、ゲーテを避けて通ることはできませんし、カフカやヘッセも彼の影響を受けています。カフカを研究しようとしたら必然的にゲーテを調べる必要が出てきました。
ゲーテ街道
ドイツ文学またドイツ文化も私の研究対象なので、これに対してもっと具体的知識を深めようと思い、一昨年ドイツの「ゲーテ街道」へ行きました。ゲーテ街道はゲーテの生誕地フランクフルトから最期の地ワイマールを通り、ゲーテが学生時代を過ごしたライプツィッヒまでを辿るドイツの観光街道のひとつです。私自身もっと早い時期にこの街道を訪れておきたかったんですが、東西ドイツの対立が起こっていてなかなか行く機会がなくてね。それというのも、ゲーテ街道の大部分が東ドイツ領に含まれていてビザの取得が大変だったうえに、大学の方が忙しかったので訪れるのが遅くなってしまいました。
今回の旅行では、ゲーテがカール・アウグスト候という王子に招かれ政治の手助けをしながら、26~82歳までおよそ生涯の4分の3を暮らした場所であるワイマールや、マルティン・ルターが新約・旧約聖書を翻訳したアイゼナハ市のワルトブルク城へも行くことができました。ルターが新約・旧約聖書を翻訳する際に使用した言葉が後の共通ドイツ語として人々に広まっていったので、ドイツ文学史においてルターは重要な役割を果たしたと言えますね。それというのもドイツ文学とは、ドイツ語で書かれた言語作品を指し、ドイツ国内で書かれた文学だけを指すものではありません。ですからドイツ文学にはドイツ語圏であるオーストリア文学、スイス文学も含まれますし、チェコのプラハのユダヤ人家庭に生まれたフランツ・カフカの作品もドイツ語で発表しているので「ドイツ文学」と言えます。
ドイツ文学を読み解く意味
文学を学ぶうえでジャンルをドイツ文学に限る必要はないと考えています。文学は国によって色々ありその長短も色々あると思います。また読む人の好みによっても左右されます。ドイツに興味を持つ人、特にドイツ音楽や哲学に興味を持つ人は是非ともドイツ文学も読んでは欲しいと思います。ドイツ人の物造りに対する徹底性という部分を理解するうえでは間接的ではありますが、ドイツ文化を理解するのに大いに役立つと思います。 私の場合はドイツ文学に興味を持ったというより、文学そのものに興味を持ったという気持ちが強く、出会ったのがヘッセであったからドイツ文学を好きになったと言ってもいいところがあります。私はヘッセの「求道的な」主人公の姿が好きだったのかもしれません。カフカの場合はミステリー調の謎解き的要素が強くありますが、ヘッセのどこか求道者的な要素と共通しているようにも思えます。ドイツ文学では悲劇に名作が多いのですが、ドイツに限らず名作は悲劇的ではないかと思います。シェークスピアもそうですが、漱石でも『三四郎』以降はその傾向が強いのではと思っています。
私は『文学を学ぶ意義』をあえて言うとすれば、人間の「感性」や「悟性」を磨く手段の一つだと考えています。感性は絵画でも音楽でも磨くことができますが、文学は感性だけではなく、「理性」や「悟性」を磨くことができるという意味で、音楽や絵画と大きく違うのではないかと思っています。文学は文字を通して思想や哲学を学び、無意識のうちに論理的思考、つまり筋道を立てて作品を理解しようとします。それが人間の持つ理性的要素や悟性的要素を鍛える事につながると思うからです。
人類文化学科 表現言語領域 田中 勝 教授
1944年生まれ。関西学院大学文学部ドイツ文学科卒業後、同大学文学研究科修士課程を修了し、助手として本学で勤務。日本ドイツ文学会に所属し、主な研究課題はフランツ・カフカの『審判』及び『アメリカ』に関する作品研究。