Vol.20(2011年3月)
小久保 香江
「いつも医療現場で患者さんときちんと向き合って」
神経心理士という聞き慣れない言葉。人文学部で教鞭をとる一方、リハビリテーション医療の現場で活躍する小久保先生に、神経心理士とは何かを聞いた。
TEXT・PHOTO 橋田真理子
神経心理士とは
脳に損傷を受けるとその後に記憶の障害、言語の障害などが出現します。神経心理学は脳損傷患者さんの観察から脳と「こころ」の関係を研究する学問です。例をあげると、脳のAという部位に傷がつくとしゃべれないという症状がでる、脳の部位Aとしゃべれないことはどういう関係があるのだろう?…というのを考える学問です。神経心理士は実際に脳損傷患者さんに心理検査を行い、どの認知機能が障害されているのか、その障害の程度について評価し、症状と脳損傷部位の関係を考えます。神経心理士という名称は仕事内容を名乗ったもので、国や機関が認定した資格はありません。海外では国家資格として認められている国もあります。
では、同じ「こころ」の専門家である臨床心理士との違いについて説明しましょう。臨床心理士の職場は多岐にわたりますが、病院では精神科が主な活動分野になります。精神科を受診される患者さん、たとえばうつ病や統合失調症の患者さんは、目に見える脳損傷はないのに「こころ」の障害があります。一方、私、神経心理士の活動分野は主に神経内科です。神経内科とは脳と脊髄の病気の患者さんを診察する科です。対象となる患者さんは脳に傷があります。たとえば、脳の血管が詰まって脳梗塞になった方、あるいは交通事故で頭を強く打ち脳が損傷した方が対象です。脳に目に見える損傷がある患者さんの「こころ」の障害の評価を行うのが神経心理士です。
チームで患者さんを支える
私が神経心理士として所属している森之宮病院は脳卒中専門のリハビリテーション病院です。脳の損傷により手足の麻痺や言語障害・記憶障害などが出現した患者さんのリハビリテーションを行っています。森之宮病院では、医師が麻痺および感覚障害の有無など医学的な診察をした後、神経心理士に「言語障害や記憶障害などの有無および障害の程度について調べてください」と依頼がきます。
そうするとまず、現病歴を把握し、頭のMRI画像を見て患者さんの脳の損傷部分を確認します。その後、患者さんにお会いして全般的な心理検査を行い、さらに症状に合わせて詳細な心理検査を行い、「神経心理学報告書」を作成し医師に報告します。
森之宮病院では医師を中心にリハビリスタッフがチームを組んで、患者さんをサポートし、リハビリテーションを行います。
週2回行われるカンファレンスでは、医師を中心に患者さんの担当スタッフ(理学療法士、作業療法士、言語療法士、看護師、社会福祉士)が集まります。それぞれの立場から患者さんの現在の状況を報告し、月ごとに目標を立てます。理学療法士は運動能力の評価を行い、歩行が可能か、車椅子での移動は可能かなどを見極めます。作業療法士は生活場面の作業能力の評価を行います。たとえば、衣服の着脱、トイレでのズボンの上げ下げ、料理ができるかなどです。言語療法士は言葉の障害の程度や摂食の問題を評価します。看護師は病院生活で看護が必要な部分を評価します。社会保健福祉士は社会保障の手続きなどを行います。
このように多くの専門スタッフが関わり、経過を相互に確認しながら、退院へ向けて患者さんのニーズ(職場に戻りたいなど)をふまえながらチームで医療を行っています。
脳のメカニズムを学びたくて
大学で心理学を学んでいる時、山鳥重先生の「脳からみた心」という本を読みました。失語症の患者さんの話が記載されており、はじめて神経心理学という分野を知りました。その後、病院で実際に失語症患者さんのリハビリ場面を見学する機会があり「どうしてこんなことが起こるのか、頭の中で何が起こってるんだろう」という驚きと「こころ」がいま目の前にあるという思いが湧いて、神経心理学を勉強できるところを探しました。そして無鉄砲ながら本の著者である山鳥先生に会いに仙台へ行きました。お会いして「神経心理学のことはまだ何も知らないけれど、どうしてこういう失語症状がでるのかを知りたいのです」と言ったところ、山鳥先生はにっこり微笑んで、「今はまだ何も知らなくてもいいよ。ここで勉強したらいいから。」とおっしゃってくださいました。そのやさしい先生の言葉が素直にほんとうにうれしくて東北大学医学部の大学院に進学しました。
脳に傷がつくとさまざまな症状が現れる
今年は高齢者心理学と医療心理学Ⅱを担当しています。高齢者心理学では認知症について講義しています。認知症とは症状名です。病気の名前ではありません。認知症を引き起こす病気はたくさんあり、アルツハイマー病はそのひとつです。よって病気によって現れる症状は異なり、介護や対応も変わります。
医療心理学Ⅱでは、森之宮病院で行っている仕事を中心に脳卒中により生じる認知機能障害について講義しています。
最近、「高次脳機能障害」という言葉が新聞で紹介されるようになりました。脳の損傷によって生じる認知・行動障害を表す新しい用語です。高次脳機能障害(脳の損傷によって生じる言語障害や記憶障害など)は外から目に見えません。よって患者さんの外見は健常者と変わらないのですが、生活上さまざまな困難が生じます。高次脳機能障害について少しでも多くの方に正確に知っていただきたいと思っています。たとえば、脳の右半球に損傷のある患者さんの7割くらいが、視野が欠けていないにも関わらず、左の空間に注意が向かないという症状が出現します。生活場面では、食事の時に右側のお皿のものだけ食べて、左側のものは残されます。症状がひどいと、顔拭くのも右側だけ、歯磨きも右側だけとなります。この症状(左空間の無視)は生活を送るうえで問題となるので、脳の右半球に傷がある患者さんが入院されると、まず左空間の無視がないかどうかを調べます。患者さんの顔を見ただけでは症状は見えず、患者さん自身も左空間の無視に気付いていないので、心理検査や観察から症状を正確に捉えることが重要なのです。
症状を正確に理解すること
森之宮病院には常時200人程度の患者さんが入院されていて、多くの方に認知機能の障害があります。現在、3人の神経心理士で患者さんを担当しているのでたいへん忙しくしています。
神経心理士に求められることは、「患者さんから学ぶ」という姿勢と「患者さんの症状を正確に理解する」ことです。障害されている認知機能だけでなく保たれている認知機能も正確に捉えて理解したうえでリハビリテーションや社会生活復帰に繋げたいと思っています。
大学着任後はじめての夏休みも病院で仕事をしました。いつも、患者さんときちんと向き合って、難しい症状も正確に理解できるようにというのが私の目標です。
※現病歴
今回受診することになったはじまりから現在までの症状の経過。
※MRI
磁気共鳴映像法 magnetic resonance imaging の略称。磁気を利用して体内を縦横に撮影できる医療機器、磁気共鳴装置(MR)による映像法で、その装置のこと。
※カンファレンス
打ち合わせや会議のこと。
小久保 香江(コクボ カエ)
人文学部人間心理学科 准教授
1996年 立命館大学文学部卒業
2000年 東北大学大学院医学系研究科博士前期課程修了
2010年 東北大学大学院医学系研究科博士後期課程(博士(障害科学)取得)
2006-現在 森之宮病院 神経心理士
研究テーマ
● 脳損傷による認知機能障害 ●脳損傷による行動障害