2025年6月14日(土)、あかし市民図書館において人文学部の中村健史准教授が「「喜春城」へようこそ―明石城をうたう文学―」と題して講演を行いました

講演する中村准教授

講演する中村准教授

 明石城には古くから「喜春城」という別名があり、江戸時代の儒者・片山兼山が命名したものと伝えられてきました。中村准教授によれば、こうした伝承は戦前に活躍した明石の儒者・橋本海関の著した『明石名勝古事談』の記述に基づくものと考えられます。

 

 一方、中村准教授の調査によれば、1680年に刊行された『扶桑名勝詩集』という書物には「播州明石城十境」の一つとして、すでに「喜春城」という呼び名が登場しています。片山兼山が1730年生まれであることを踏まえると、彼が喜春城の命名者であると考えるにはあまりに無理があります。『扶桑名勝詩集』には「兼山」という作者名が書かれていますから、これを橋本海関が誤解して『明石名勝古事談』では「片山兼山が命名した」と紹介したのではないでしょうか。

 

 江戸時代のはじめには「八景詩」や「十境詩」と称して、いくつかの景色をまとめた「鑑賞リスト」を作成し、詩歌を添えて賞翫することがはやりました。各地の大名が競うように八景、十境を作られせています。『扶桑名勝詩集』はこのような八景、十境の詩歌を集めて編集した書物で、兼山作「播州明石城十境」も明石城が築城された1619年から1680年(刊行年)までのどこかの時点で製作されたものと考えられます。

 

 たとえば「播州明石城十境」の冒頭には、「喜春城」と題して「城 高くして 春水 深く、佳木 清陰を卜(ぼく)す。すでに陽和の動きてより、さらに寒気の侵(おか)すなし」(城は佳木の陰にあって高々とそびえ、(堀の)水かさも増した。いったん春の気が動きはじめると、少しも寒さを感じることはない」という詩が置かれています。この詩の内容を踏まえて考えると、「喜春城」という名前は、播磨南部の海際に位置し、温暖な気候にめぐまれた明石を讃えるための表現だったのではないでしょうか。

 

 そのほか「播州明石城十境」のなかには、明石城内の東北に位置し、現在でも市民の憩いの場として親しまれている剛の池を詠んだ作品(「緑竹塢」「迎涼池」)や、城内に作られた瓜畑を玄宗皇帝の故事になぞらえる作品(「進瓜園」)、堀の一角に作られたと思しき水車を取りあげた作品(「載月車」)などバリエーションに富んだ漢詩が見られます。喜春城、芳草塘、緑竹塢、迎涼池、雲竜堂、進瓜園、観魚橋、載月車、鶴舞峰、含雪軒の10ヶ所を城内の「ビューポイント」として選んだのが、「播州明石城十境」だったのです。

中村准教授の講演を聴く参加者ら

中村准教授の講演を聴く参加者ら

 1時間半に及ぶ長い講演でしたが、地域から多くの方々が参加され、質疑応答も活発に行われるなど、たいへん充実した講演会になりました。この講演は地域研究センターの主催する大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ2025の一環として、あかし市民図書館との共催で実施されたものですが、同館によれば中村准教授の講演会は人気が高く、今回も30人の定員が予約開始3時間程度で満席になったとのことです。

 

 神戸学院大学は「地域と繋がる大学」を目指し、教育・研究のみならず、社会貢献・地域貢献の面でも研究機関としての責任を果たしてゆきたいと考えています。特に人文学部には地域研究センターが設置され、明石・神戸地域に関する研究を推進しています。研究の成果をアカデミズムの世界に留めるのではなく、ひろく地域の方々と共有することによって、社会にひらかれた大学を創ってゆくことがわれわれの願いです。大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェをはじめとする講演会・ワークショップの取り組みはごくささやかものでしかありませんが、今後も継続して実施してゆきたいと考えています。あたたかく見守っていただければ幸いです。

 

(掲載した写真はいずれも本学矢嶋巌教授撮影)

 

※講演会のくわしい記事は[神戸学院大学ウェブサイト][地域研究センターウェブサイト]にも掲載されています。