Vol.19(2010年11月)
春日 雅司
日本は大きな田舎 マックス・ウェーバーとの出会いからはじまった学者への道
自分で足を運ぶことをなによりも大事にする春日先生。10年越しの農村での研究で見えてきたものは?
TEXT 森本 千晴/ILLUSTRATION 横畑 亜沙美(卒業生)
近代資本主義の精神は「もうける」ことではなかった
大学時代、「社会思想史」という分野にたいへん興味がありました。いろいろな人物の本を読み、いろいろな思想を吸収し、自分で整理する。それを繰り返していました。
高校の時、図書館で手にした『マックス・ウェーバーの生涯と学説』という古い本を訳もわからず読み、大学生になったらぜひ本物を読んでみたいと思うようになったのが、ドイツの社会・経済学者であるマックス・ウェーバーとの出会いだったんです。産業革命以後の西欧社会をどう理解するかという問いに対して、「資本主義の精神」をキーワードに西欧社会における近代資本主義の意味を分析する彼の思想に魅力を感じました。近代資本主義の精神は、もともと目的としての禁欲、その結果としての富の蓄積という因果関係にあります。しかし、19世紀以後の資本主義では「もうけ(富の蓄積)」が目的化しているところに、因果関係の逆転現象がみられる。もうけ第一の資本主義なら西欧以外にも、また過去にも広く見られるのであって、西欧近代の資本主義の独自性は、なによりも禁欲を説いたプロテスタンティズムの倫理に由来するところにある。それだけでなく、法・政治・経済・社会など多方面にわたる西欧近代の「合理的」な思考が、「なぜ、西欧にだけ生まれたのか?」と問いかけ、解明しようとしたウェーバーの思想は、大胆であり、非常に興味深かった。それが私の研究の原点です。
「現実」から学べること
大学院時代、青山秀夫先生に「ウェーバーの世界」へ本格的に導いてもらった私ですが、大学教員になってからは、学生にも興味を持ってもらえるよう、もう少し実証的なことをやろうと思い、「農村社会」の構造の勉強をしはじめました。大学院時代、ジンメルを教えていただいた神戸大学教授の居安正先生が誘ってくれたのがきっかけで、鳥取県全体での調査を開始することになりました。鳥取県の地域政治の調査でわかったことは、農村における人々の社会関係は「基礎的なもの」から「機能的なもの」に変化していったということ。「基礎的」とは血縁や地縁、つまり、親や兄弟、親せきなどの地縁、血縁、友情などにより自然発生した有機的な繋がりです。「機能的」とは、学校や会社、大都市のように利害・打算関係に基づく人間関係を指します。実は、このような変化は「当たり前」のことで、社会学を志す者なら誰もが知っていたことなんです。でも、「科学」というのは、疑うことからはじまる。「当たり前」を疑ったからこそ、コペルニクスの地動説も出てきたわけでしょう。「当たり前」と思いつつも、いったん「疑う」ことで自分の勉強が始まる。私が学生たちと一緒に10年間、鳥取の農村へ何度も足を運んで、「やはり、時間の経過とともに基礎的な関係が弱まり、機能的な関係が強くなっている」ことを確認できました。そうして初めて、「常識」が科学的に証明されたわけです。
日本の農村は過疎化が進んでいます。お年寄りがたくさん暮らしている分、古い(基礎的な)人間関係が残っています。この古い人間関係が急速に失われつつあります。でも、大震災の経験や高齢化の進展する中、実は古い人間関係が見直されています。私は、古い人間関係がそのまま復活すればいいとは思っていません。しかし、「機能的なもの」では充足しきれない「新しい関係」を模索しようとすると、どうしても古いものがどういうものか、そこからなにが学べるのかをしっかり見つめなおす必要があります。学生たちにはぜひ古いといわれる社会に分け入って「自分自身の目で見る」、そして「実際にお年寄りの話を聞く」ということをしてほしいと思っています。そうすることによって私たちが暮らしている「機能的」な社会を客観的に捉える視点を獲得できると思います。
日本は大きな田舎
本学のみなさんの多くは、いわゆる「都会」で生まれ育ち、自分は「都会っ子」だと思っているようです。逆に、農村で生まれ育つと、「ひけめ」のようなものを感じているでしょう。でも、日本の「都会っ子」って、ほんとうに都会的な行動・思考パターンをしているのかというと、実は違うんだよと言いたい。日本の都市部における人々の社会関係は「機能的」なものが優位ではあるが、欧米と比較するとそれは本質的な違いではなく、単に「基礎的な」関係が弱まっているにすぎず、「機能的なもの」が熟しているわけではない。言いかえれば、「基礎的な」関係がパン粉をいっぱい混ぜた天ぷらのころもに覆われているにすぎず、社会関係の本質から見ると、日本全体が農村、田舎なんです。
「欧米」とひと口で言うことは難しいのですが、イギリスを見て感じることは、「市民社会」の成熟度が違うということです。誤解してほしくないのは、社会が進歩することで「基礎的なもの」が全く失われ、「機能的なもの」に100パーセントとってかわられるわけではないということです。科学がどんなに進んでも、呪術や迷信はもちろん、宗教だって存在意義を失わないのと同じです。「基礎的なもの」と「機能的なもの」との配合が大事なんです。日本はもともと近代化が遅れたため、追いつき追い越せをスローガンに、「日本的なもの」や「古い人間関係」を破壊したり、そこから脱却しようとしたりした。だから今、家族と地域が崩壊の危機にあるわけです。われわれは人間にとって肝心要の集団を見捨てている。イギリスも過去においてはそういう時があったのかもしれません。でも、今イギリスの友人を見ていると、一方で家族はクリスマスには必ず集まる、集まれなくてもカードやプレゼントの交換をしたり、電話で長々と話をしたりして濃密な関係を示す。でも、他方で、親子は一緒に住まないし、普段は無関心を装っている。コミュニティは複雑ですが、グラスゴーにいた時は、普段は「隣に誰が住むのかもわからない」ように見えましたが、見ず知らずの隣人が不在時の荷物を預かってくれましたし、外でなにかあればすぐ声をかけ手を貸してくれる。年1回のコミュニティ・カウンシル(自治会)の会合に出席しましたが、きちんと機能していたと思います。こういう日常生活のメリハリの付け方に「市民社会」の成熟を感じます。関係を持たなくてもいいところで関係を持ち、関係が必要なところで知らんぷりというのが日本の現状です。これは、一度行きつくところまでいかないと、つまり家族も地域もある程度徹底的に崩壊しないと、新しい関係を作ることができないのではないでしょうか。そういう経験を完了していない点でも、日本は田舎なのかもしれません。もちろん、いいところもたくさんありますよ。
日本を知る
研究面では、今までいろいろな方向を見てきたので、これからは少し整理したいと思っています。私は北海道の豊富町というところで生まれ、小中高時代を札幌で過ごしました。現在の豊富町は温泉やサロベツ原野などがあり観光客も訪れるようですが、当時は、いもと豆しか採れない気候の厳しいところでした。北海道は、みなさんご存知のとおり、日本の北端に位置しますが、イギリスの北端にあるのはスコットランド。人口も500万人前後、ちょっとした共通点からスコットランドについてもう少し研究を進めて、日本との違いを解明していきたいと思っています。
いろんな、そして広い視野を持ってほしい
ゼミ生には耳にタコができるほど言ってますが、大学生としての自覚を持ってほしいということです。「大卒」という肩書きは一生ついて回りますから、「大卒」と呼ばれる人間として社会になにを求められているかを考えてみてください。日本はすでに日本だけでは生きていけなくなっています。それに早く気づいて今のうちに世界を見てほしいと思います。本を読んだり映画を見たりして、イマジネーションする力を身につけることが大切だと声を大にして言いたいです。
春日 雅司(カスガ マサシ)
1950年3月生まれ 人文学部 教授
■学歴
1975年 立命館大学産業社会学部産業社会学科卒業
1980年 関西学院大学大学院社会学研究科単位取得満期退学
博士(社会学)
■職歴
1982-1999年 摂南大学経営情報学部、講師、助教授、教授
1999年~ 本学勤務
■所属学会
日本社会学会、関西社会学会、Japanese Studies Association of Australia、Political Studies Association(EPOP、英国)
■主な研究課題
・現代日本の地域政治と地域社会(地域政治、地域社会)
・地域政治とジェンダー(地域政治、ジェンダー、女性議員)
・スコットランドの政治と社会(スコットランド、地域政治、地域社会)