2009年12月号
日系社会との架け橋になる
日系人と日本を繋ぐ仕事をしている先輩がいるという。そんなスケールの大きい仕事に就くにはどうすればいいのだろう?興味津々で、海外移民が旅立っていったヨコハマに向った。
(文 杢田あゆみ/写真 佐々木絵美)
新横浜で新幹線から東海道線に乗り換えて約15分、JR桜木町駅に到着。駅の南側に出てしばらく歩くと、青く澄んだ空のもと美しく整備されたウォーターフロントの光景が広がった。
高さ296mの日本一高いビル、横浜ランドマークタワーのもとには帆船が繋留され、中央には緑溢れる広々とした公園。そしてその向こうは海。大規模商業施設や雑誌でよく見かけるレンガ造りの倉庫も見える。ここ「横浜みなとみらい21」は、横浜市西区と中区にまたがる海に接している地域で、あらたな横浜の顔として再開発が進められている。横浜開港150周年を迎える今年は「開国博Y150」という博覧会が催されている。人通りの多い道を歩くこと約20分、財団法人海外日系人協会のあるJICA横浜国際センターに到着した。受付で要件を伝えると、小麦色に日焼けした中井さんが笑顔で出迎えてくださった。
日本文化を継承する仕事
「日系人の一世の方々はここ横浜や神戸にある移民センターに集められ準備を整えたあと、移民船に乗り込んでブラジルをはじめとしたいろんな国へ向かった。だから海外日系人協会はゆかりの地である横浜にあるんです」
日系移民の歴史は長い。明治時代から始まった海外への移民。今では中南米やアメリカなど、さまざまな国に約260万人もの日系人が活躍している。そういった日系人の人々をいろんなかたちで支援しているのが海外日系人協会だ。
彼女が所属しているのは「継承日本語教育センター」。この部署では海外や日本に住む日系人の人たちが日本語や日本文化を継承していくためのお手伝いをしている。今年の3月まで、ブラジルなどの日系日本語学校の教師のための研修や海外から来た研修員のための日本語研修の運営を担当していたが、この4月から日本財団日系スカラーシップとJICA日系社会リーダー育成事業というふたつの奨学金制度の担当になったそうだ。
日本財団日系スカラーシップとは、将来居住国で活躍するための具体的な夢を持ち、日本で勉強したいという中南米の日系の留学生を対象に奨学金を支給するという制度。JICA日系社会リーダー育成事業は、将来の日系社会を担うリーダーを育成することを目的に、日本の大学院に留学を希望する日系人のための奨学金制度だ。
「9月末にはボリビアとブラジルへ留学希望者の面接に行ってきました。倍率は10倍にもなります。英語圏なら英語を習っているからまだしもですが、日本に留学するためには日本語も勉強しなければいけない。そこまでして日本への留学をめざす日系人の人たちの日本への思いはすごいなと思います」
留学が決まれば、入学手続きなどのサポートする。現在、中井さんともうひとりの職員で、現在約50人の留学生たちの面倒を見ている。
人文学部の第1期生として
「先輩がいないという不安は特にありませんでした。むしろ私たちがこれからこの人文学部を築いていけるのだ、という好奇心でわくわくしていました」 1990年、中井さんは第1期生として人文学部に入学した。2年生からは日本文化コースに進み、日本の歴史や文学、言語学などを学んだ。イヴェントプロデュースをテーマとした演習があって、イベントの企画、ライブのチケット販売なども経験するなど、学生生活を謳歌した。
2年生だった1991年にバブルがはじけ、不況へと突入する。就職活動をはじめた3年生のころ、企業は軒並み新規採用を抑制するようになり、内定取り消しが問題になるなど就職氷河期がはじまった。そして中井さんが卒業した1994年から、2005年に至るまで氷河期は続く。「空白の10年」と呼ばれるその時期に就職した世代は、派遣労働やフリーターというかたちで働かざるをえない人が多く、ロスジェネ(ロスト・ジェネレーション)世代とも呼ばれ、社会問題にもなっている。
「今思うと、自分にはあまり向いていない業界を志望していたのかもしれません。会社訪問した時も、『こんなつまらないところでみんないったい何がしたいのだろう』とか思っていましたし。新卒で会社に入ることは重要視してなかったから、ダメならダメで次に進まないと」
なかなか内定がもらえなかった中井さんは、在学中からやっていた三宮の大手有名雑貨店のアルバイトを継続することに決める。そして、就職活動を切り上げた彼女は、4年生の冬、薬学部と経済学部の友達3人で卒業旅行へ行った。
「初めての海外旅行がインド! 両替所の銀行員に両替のおカネをごまかされたり、お腹をこわして熱が出たりとハプニング続出の2週間。そんなことがあっても、海外の魅力にすっかり取りつかれてしまいました」
この旅行が後の人生に大きく影響を与える。ちなみに、この旅行で「また海外に出よう」と約束した友達は、今、タイで日本語教師をしているという。
仕事をしながら日本語教師をめざす
大学卒業後は前述のお店でアルバイトとしてフルタイムで働く。食器売場を担当し、商品の発注から販売、接客までなんでもこなし、その仕事ぶりが認められて契約社員になった。
「毎日、すごく楽しくて充実していました。もともと接客は好きだったので、このアルバイトを通して改めて接客は自分に向いていたのかも、と感じました。ただ、このまま働き続けていていいのか、といった思いはずっとありました」
同級生の友達は、就職口がなく不安定な仕事に就いている人もいる。中井さんを含めみんな「今の仕事は食べるため」と割り切り、自分にあった仕事を模索していたという。
「学生時代、青年海外協力隊のポスターを見て説明会に参加し、『日本語教師』という仕事があるんだということを知りました」
インドに行ったことで芽生えた海外へ住むことへの憧れ。大好きで人文学部でもじっくり勉強した日本の文化。そのふたつが「日本語教師」で結びつく。そしてその教師になるためには、日本語教師養成講座を受講する道があるということを知り心が動いた。ただ、講座は1年間掛かり、学費も約50万円もするということもあって決めかねていた。卒業して約1年、仕事にも慣れ、そろそろ養成講座を受講しようかと思っていた矢先、阪神・淡路大震災が起こる。
勤め先がある三宮界隈は甚大な被害を受ける。命には別状はなかったものの、生活することもままならず、実家がある高知県に一時避難。約1年後、なんとか神戸で暮らせるめどがつき、仕事にも復帰した。それから週に3回、夜間の講座に勤めながら1年間通った。
授業内容では、日本語の歴史や教授法の歴史、発音やアクセント、文法などの理論を学んだ後、教授方法を実技で学ぶ。そして最後に教育実習という内容で、全420時間かかった。
「通っていたころ、『ドク』というテレビドラマがありました。主人公の安田成美が日本語教師をめざすというラブストーリーでヒットし、日本語教師という職業が話題になりました。ただ、日本語教師の需要はさほど多くなく、講座を修了したからといって職業としてなりたつ見通しもなかった」
ところが講座修了後、タイミングよく日系社会青年ボランティアの日本語教師の募集があり、採用試験を受けて見事合格する。
「何の不安や心配もなく、『やった!!』と喜んでいました。渡航費、現地での生活費、住居費も支給され、おカネの心配もしなくていい。期待で胸いっぱいでした」
そして1998年3月から3年間、日本語学校の日本語教師として中井さんは南米ブラジルへ旅立つ。26歳のことだった。
ブラジルの田舎で日本語と日本文化を教える
昨年はブラジル移民100周年。約140万人にもおよぶ日系人がいるブラジルの日系社会では、日本語や日本文化を引き継いでほしいという思いがあり、日本語学校が各地にある。
ブラジルの小学校は午前か午後の半日で授業がすべて終わる。日系の子どもたちは塾のようなかたちで日本語学校へ通い、日本文化や日本語を学ぶ。最近では日本の文化やアニメなどに興味を持って日系人以外の子どもでも日本語学校で学ぶこともあるそうだ。
中井さんの派遣先はパラナ州アラポンガス市。サンパウロ州の首府であるサンパウロ市を南にバスで8時間の距離にある治安も悪くなく住みやすい田舎。
「日系人が多い地域なので、うどんや餅、醤油や味噌もスーパーで手軽に買えたり、近所の人が豆腐を作っていたり、時間のある時は自分でラーメンやパンを作っていました」
日系人のコミュニティーは、日本以上に日本らしく暮らしやすいという。日本語教育の対象は日系3~4世の子供が中心で生徒は約50人の小さな学校。
「派遣先の学校には私を含めて先生が2人。期待されてすごくプレッシャーがありました。先生といっても実際に海外で先生として教えた経験なんかないし」
日本語だけではなく、日本文化についても教えた。子供たちには学校でよさこい踊りを教え、学芸会でみんなで踊ったり、お盆の季節には浴衣の作り方から指導し、作った浴衣を着て盆踊りを踊った。
「日本文化の知識やイヴェントプロデュースなど授業で学んだことが役立ちました。大学で学んだことで無駄なことはほとんどなかったな、と実感しました」
日系の人たちは大のカラオケ好き。カラオケ大会の審査員を任されたこともあった。日本語の歌詞を間違えると減点になる。そのこだわりに日本文化に対する深い思いを感じた。
キャリアが生きる仕事に巡り合う
そしてJICA海外ボランティアの3年間が終わり、中井さんは帰国。それから就職活動はしたものの、ボランティアでの経験を生かせる就職先がなかなか見つからず9ヶ月間が経った。そのころ、ブラジルで一緒にボランティアをした仲間から「海外日系人協会というところで人を募集している」という情報がもたらされる。早速エントリーした中井さんはめでたく採用となり、日本語教師の養成という仕事に就く。
中井さんの濃密な来し方に耳を傾けていると、いつの間にか取材時間が大幅にオーバーした。まだまだ聞きたいことがあったが、最後に、今までの人生を振り返ってどう思うか聞いてみた。
「海外日系人協会で働いている人は、海外でボランティアを経験した人ばかり。ボランティアへ行っていなければ、紹介してくれた同期との出会いもなかったわけだし。日本語教師養成講座に通ったこと、ボランティアに行ったこと、自分の決断は間違いじゃなかった」
中井さんは人生を刹那的に生きてきたという。先が見えないなら、自分がやりたいことを手がかりに粘り強く生きていけば、道は拓けていく。刹那的でもなんでもとにかく前に進めばなんとかなるんだ。……再び訪れた就職氷河期を前に、勇気をもらった気がした。
●財団法人海外日系人協会
世界各地で活躍する約260万人の海外日系人と日本社会との架け橋として、国際交流や協力事業を行っており、日系人を通じた対日理解が促進され、相互の繁栄・親善に寄与する社会を作ることを目的としている。
●年に1回、十数カ国から来日した各国代表が日系社会の現状を報告する「海外日系人大会」の開催。
●日本在住の日系人の支援として生活や就労に関する相談業務
●日系人向けの日本語教室の開講
などを行っている。
http://www.jadesas.or.jp/
●日本語教師
日本語教師とは日本語を母語としない人に対して、日本語を指導する教師のこと。小学校、中学校、高校の教師になるには「教員免許」が必要だが、日本語教師には「これがなければ仕事ができない」といったような免許や資格はない。ただ、民間の日本語学校などで教師として働くためには、日本語教師養成教育機関での履修課程を420時間以上履修し、日本語能力検定試験に合格していることを条件としている場合が多い。