2013年10月号
ひとつひとつの連なりが、どこにもない自分を創る。
子どものころの「手話」との出会いから養護学校教諭へ、教育の現場で
蓄積した経験を高等教育へ還元していく。
(文 尾西 愛美・写真 谷川 晴香)
名古屋駅から地下鉄東山線に乗り換え20分ほどで一社駅に到着する。めざす愛知東邦大学はここから約15分。新興住宅地を通り抜けたところに瀟洒なキャンパスが見える。近づけば閑静な町並みに学生たちの賑やかな声が響く。
今日はここで教鞭をとっておられる藤重育子さんを取材するためにはるばるやってきたのだ。
大学教員の藤重さんなのに、まるで喫茶店で長話をする女子大生にもどったかのように目をきらきら輝かせながら、昔のことを語りはじめた。
高校時代、一生懸命勉強に取り組むがなかなか成績が上がらなかった。ただ学生生活はきちんと過ごしていたので、担任に神戸学院大学の指定校推薦入試をすすめられた。「家から近いし、早めに進学先を決めてアルバイトをしたい」といういささか安易な気持ちと「人の心を学んでみたい」という気持ちから、2000年に新設されたばかりの人間行動学科(※)を選んだ。
学業もバイトもフルに詰め込んだ2年間
大学生になってみたものの、授業の内容は想像を超えるものだった。先生がなにを言っているのかさっぱりわからないのだ。
「とりあえず単位を取らないと」。授業はいつもいちばん前の席に座って、一字一句逃さないようノートを取り、必死になって授業を受けた。
とにかく忙しい日々だった。1~2年生のころは、忙しい合間を縫って3つのアルバイトを掛け持ちしていた。5つ掛け持ちしていた時期もあった。「うどん屋さんでしょ、酒屋さん、あっ塾もあったかな」。それに加えて週1や単発のバイトもしていた。毎日5限まで授業、終わればアルバイトへ直行、カラオケオールもしばしばで、勉強もほどほどな学生生活だった。
ボランティアで見つけた進路
授業そしてバイトと、あっという間に2年間が過ぎ、3年生になってようやくゆとりができた。そのころ、「近くの小学校で子どもたちのサポートをする」ボランティアの依頼があることをゼミを通じて知った。神戸市の教育委員会が発達障がい児をサポートするための学生ボランティアを求めていたのだ。
「楽しそうだし、行ってみよう」軽い気持ちで応募した。しかし、いざはじめてみると、驚くことばかりだった。教室の中をいつも走りまわっている子、目が見えない子、耳が聞こえない子、いろいろな子どもがいた。
難しかったのはコミュニケーション。はじめたころ、走りまわっている子どもたちを目で追い、話しかけようとした。でも子どもたちは近づいてこない。どうしたらいいのかわからず悩む日が続いた。子どもたちが好きな色の服を着て行ったり、筆箱に大きなストラップをつけてみたり…。
ある日、追いかけなくていいことに気がついた。
「私の出会った発達障がいの子はね、追いかけると逃げる。でもね、気づいてないふりをしてたら横にちょこんと座ってたりする」
自分のやり方で徐々に子どもたちとの距離が縮まっていくのがうれしかった藤重さんは、発達障がい児サポートのボランティアにのめり込んでいった。
4年生になろうとするころ、気がつくとまわりの友達は就職活動をはじめ、内定を獲得した人も増えていた。
「とりあえず先生にはなろうかなって思ってたんだけど」自分が教壇に立ってだれかに教えている姿はイメージしにくかった。どうしようと悩んでいたとき、他大学から小学校へサポートに来ていた仲間に進路のことをたずねてみた。すると「教員免許を取って仲良し学級の先生になる」という答えが返ってきた。今、取り組んでいることの延長線上に仕事があることをはじめて実感した。
「幅広い障がい児教育をもっと勉強してみたい、障がいを持った子どもとかかわる仕事がしたい」
さっそくいろいろ調べてみると、障がいを持った子どもたちとかかわるには多くの専門知識がなければいけないこと、そして必要な資格があることがわかった。それらを身につけるために大学院への進学を決めた。
大学院は兵庫教育大学を受験した。入試問題は3問。英語の論文と教養の問題、そして障がいに関する問題だった。
大学院に行くと決めたのが出願締め切りの1週間前。しかもアルバイトもしていたため、受験勉強する間もなく試験にのぞんだ。
「英語がね、まったくできなかったの!」
出題された3問目は、「知的障がい、聴覚障がい、視覚障がいのどれかについて論述せよ」というものであった。藤重さんは迷わず聴覚障がいを選択した。
手話との出会い
手話は手と腕の動き、手の形や位置で、特定の概念(たとえば「山」「泳ぐ」など)を表意記号で表す。
子どものころ、聴覚障がいの人がバスの中で困っていた。そのとき、一緒にいた藤重さんの母親が手話でなにを困っているのか聞き出し、求めていることを伝えた。幼かった彼女はすぐにそれが手話であることがわかった。当時、『愛していると言ってくれ(あいしているといってくれ)』という豊川悦司主演のテレビドラマがオンエアーされていた。その劇中で手話が使われていたのだ。その人は停留所で降りた後もバスに乗っている母親に幾度もお礼を手話で伝えていた。
藤重さんは手話を勉強したいと思った。しかし、当時手話の講習会は高校生以上でないと受講できなかったため、母親に教えてもらった。そして高校生になってからは講習会に参加し、聴覚障がいの人と実際に交流したり、神戸まつりなどの司会の横で手話通訳をしたりした。
そういう活動で学んだのは手話だけではなかった。「聴覚障がいの人とのコミュニケーションの仕方とか、どんなふうに話したら理解しやすいか、たとえば後ろから声はかけないとかね。そんな大切なことを学ぶよい機会でした」
聴覚障がいのことについて、今までに得た知識や経験など思いの丈を答案用紙に書いた。そして藤重さんは合格した。
大学院では聴覚障がい児教育を専門的に学んだ。勉強は難しかったが苦にはならなかった。
聴覚障がい者とのコミュニケーションギャップ
2年間の修士課程が残り1年を切り、養護学校の先生になることを考えはじめていたころ、聴覚障がいを持った大学院の友人から食事のお誘いメールがきた。「食べに行こう。アイセキ」
「アイセキ?相席?一緒にご飯食べようってことかな?」と疑問を抱きながらも「いいよ」と返事をした。
食事のとき、「アイセキってなに?」と手話でたずねた。すると、「会う+席」と手話で返してきた。「それは『アイセキ』じゃなくて『カイセキ』と読むんだよ」とそのときは伝えた。その後、「か」の発音を文字にするには、「あ」なのか「か」なのかわからず、間違えて送ってしまったということを知った。聴覚障がいを持つ人は周りの音が聞こえないため、「聴覚口話法」という健常者と音声で会話する方法を子どものころに指導される。健常者の口の形と補聴器や人工内耳から聞こえる音をたよりに発音するが、はっきりとは聞こえない。口の形が全く同じなので視覚的には区別がつかない「あ」と「か」の発音の間違いが生じたのだった。
「この小さなズレがだんだん積み重なって健常者と聴覚障がいを持つ人との大きな溝になるんじゃないかな」
友達は聴覚口話法の指導が苦痛であったことも話してくれた。口に手を入れられ、発音の練習をさせられたりしたという。これは、発音の間違いをなくすためのものである。
そのとき、手話に関して気がついたこともあった。手話はコミュニケーションをとるのにとても便利なものだ。しかし、手話で話し慣れると、文章にしたり、健常者と会話するとき、時として相手に気持ちがスムーズに伝わりにくくなることがある。『私は久しぶりに○○へ行きました』という文章を『私、行った、○○、久しぶりだ』と、手話特有の文の組み立て方をしてしまうからだ。
「健常者と聴覚障がいを持つ人の溝を少しでもなくせたら」と痛切に思った藤重さんは、聾学校(※)の先生をめざすことにした。
大学卒業時に高等学校教諭一種免許状(公民)を取得していたので、大学院では聾学校教諭専修免許状や養護学校教諭一種免許状を取得することができた。
聾学校教諭専修免許の取得をめざしていた際に実習を受けた聾学校では、講習会やボランティアなどで培った手話を含めた会話力で、先生や生徒たちと親しくなった。そして、実習先の聾学校から「手話ができる」ことが高く評価され、常勤講師の声がかかったのだ。
大学院を修了してからは、聾学校の常勤講師として2年間、特別支援学校で1年間働いた。聾学校では、生徒はもちろんのこと、教員の中にも聴覚障がいを持った人がいたため、会話や会議で手話が大いに役に立った。教室では子どもたちに手話や口話の練習はもちろんのこと、人への声のかけ方などたくさんのことを一人ひとりわかるように教えた。
またこの3年間で藤重さんはたくさんのことを現場で学んだ。たとえば、聾学校では子どもたちの優しさから生まれる団結力に日々驚かされた。「授業がはじまっているのを知ってても、ひとりの子が困っていたら教室のみんなが助けに行ってしまったり」
子どもたちが将来ぶつかるであろう言葉の壁が少しでも減るように「文字カード」を考案し、それを作って文法を教えたりと熱心に指導した。
「本当に私は出会う人たちに恵まれて」と藤重さん。日ごろの前向きさやひたむきさなくして運も縁も巡ってはこないだろう。
母校で実習助手になる
聾学校や養護学校では「子どもたちがひとつでも多くの課題をクリアできるように」と、一生懸命取り組んだ。取り組めば取り組むほど、子どもたちの成長に繋がることを実感し、やりがいを感じていた。その一方で、「聾学校や養護学校で得た経験をどこかで活かせないかな」と、考えてもいた。神戸学院大学人文学部の実習助手の欠員が出ることを知ったのはそのころだった。 「先生をめざす学生に私の経験を伝えることで、子どもたちのいい教育に結びつくのでは」と思った藤重さんは迷うことなく応募し、実績を評価されて人間心理学科の実習助手として働きだした。 「まずはね、学科全員の顔と名前を覚えました」
実習助手の仕事は、教員がスムーズに授業を進めることができるように準備をしたりすることだ。しかし、藤重さんは学生の名前を覚えることにした。とはいっても、人間心理学科の学生数は4学年合わせると700人ほど。半信半疑で聞いていると、私や知り合いの学生がどこのゼミに所属していたとか、それぞれの学生の特徴などもとても詳しく覚えていて驚いた。
実習助手は、3年契約であったため、藤重さんはその先を見据え、土日の休みを利用して教育や保育にかかわるいろいろな資格を取った。それと平行してさまざまな大学教員募集に応募。「履歴書を100枚以上書いた」結果、愛知東邦大学の教員採用に合格。2012年4月より人間学部子ども発達学科の助教として「言語指導法」や「言語表現技術」という科目を担当し、保育士や幼稚園教諭・小学校教諭をめざす学生たちの指導に当たっている。
「置かれた土地で咲きなさい」という言葉がある。どんな環境でも、そこで自分なりの花を咲かすべきであるという意味だ。環境が変われば、その環境に合った今までとはまた違った花を咲かせていく。ひとつひとつの花はさほど目新しくはなくとも、それを連ねたとき、どこにもない色合いの花束となる。藤重さんの今の仕事は、今までの人生のいろいろな局面で常に全力投球で取り組んできた、その積み重ねがあるからこそできるのだと思った。
さてこれから私はどんな花を咲かせることができるのか、楽しみながら生きていこうと思う。
愛知東邦大学