2017年3月号
働きながら考えるオルタナティブな生き方
ふるさとへの思い、インディーズのライブ、持続可能な生き方…、いろいろな思いを巡らせながら古都、京都で働く。
(文:永井研)
古都の小さな八百屋
京都で無農薬野菜を扱う会社で働く先輩を取材することになった。そんな野菜を食べたことがない私は、無農薬野菜のにんじんとほうれん草を食べることにした。まず見た目からして色が濃く、まるで武者小路実篤の絵のようだった。にんじんの皮をむくと甘い香りがほんのり。かじってみると甘酸っぱい果物のような食感。ほうれん草は茎が太く深い緑色。口に含めばまろやかな濃い味、そして後味は苦味が少し。健康のためにいわば義務的に食べるものという私の野菜のイメージが崩れた。
JR京都駅下車、観光客で賑わう駅の北側に比べると南側は民家が立ち並ぶ落ち着いた街だ。目印は世界遺産にもなっている東寺の五重の塔。昭和風な街並みに町家が点在する通りを歩く。個人経営の古びた薬屋、小さな映画館…ところどころにレトロを感じる。黒々とした五重の塔を通り過ぎたところに、ちょっと今風な「坂ノ途中soil」があった。
沖野さんと挨拶を交わした後、案内してもらう。
10畳ぐらいだろうか、こじんまりした店内の中央に葉もの野菜や果菜、根菜などの野菜が並んでいる。よく見れば、「水菜」「九条ネギ」など京野菜もちらほら。その他にはウガンダで獲れた「ごま」も。
株式会社「坂ノ途中」は2009年に設立された農薬と化学肥料を使わない野菜の流通を手がけるユニークなベンチャー企業。このお店は店舗兼ショールームで、会社で扱っている商品を野菜やくだものとともに展示販売しているそうだ。
深呼吸するようにロック雑誌を読む
日本海に面した海の京都、京丹後市に生まれた沖野さん。最寄り駅は京都丹後鉄道の網野駅。そこから入り組んだ海岸の道を車で30分ほど走ったところだ。日本海に面した京都北部の丹後半島は、日本三景の一つである天橋立や、船の収納庫の上に住居を備えた伝統的建造物である伊根町の舟屋群などで知られる景勝地だ。漁業が盛んで、物産品としては「丹後ちりめん」が有名だ。
父親が教師で本好きな子供だった沖野さん。大自然の中ですくすくと育っていったが、地元中学から高校に進学するにつれ、田舎の閉鎖的な雰囲気がだんだんと息苦しくなってきた。
「好きなことを好きと言えない、やりたいことができない」
そんな鬱屈した日々を救ってくれたのが、ロック音楽の雑誌だ。はじめにハマったのが「ROCKIN’ONJAPAN」。ロッカーへのロングインタビューで有名な雑誌だ。音楽の裏に隠れたミュージシャンの人間性に触れることの面白さを知った沖野さんが次にハマったのが、日本のインディーズバンドを取り上げる雑誌「STREETROCKFILE」。いろいろなバンドの曲が入った付録のオムニバスCDを聴きこむようになった。このころよく聞いていたのが「BUMPOFCHICKEN」「ELLEGARDEN」だった。
そして、大学進学の時期を迎える。クラスの大半が地方の国公立めざす中で、神戸学院大学に進学した。
自分のやりたいことをする
新しい自分としていちからやっていけると感じた沖野さんは、怒涛の勢いでインディーズバンドのライブ鑑賞を行う。近場から東京遠征まで、その数、年80数回。アルバイトで軍資金を貯め、時には漫画喫茶で寝泊りし、食事はハンバーガーと、ストイックに楽しんだ。授業では「ROCKIN’ONJAPAN」のようなインタビューも体験。写真部に入って写真撮影にも取り組んだ。
インタビュー好きの沖野さんは参与観察、つまり研究対象である社会や集団に調査者自身が加わり、生活をともにしながら観察を行うという社会学調査方法に興味を持ち、現代社会領域に進んだ。
慌ただしい日々を過ごし、またたく間に3年次になった。沖野さんが就活をしたころ、就職活動の解禁は3年次の12月だった。趣味というよりもライフワークと化したライブ鑑賞。その関係で食べることも考えてはみた。しかし、自分たちの好きな音楽を楽しく演奏しているミュージシャンと接する中で、この道は食べるためのものではないと感じるようになった。制服を着てオフィスで事務仕事をする自分も想像できず、あれこれ考えた末に思いついたのは、いつも祖父や母が家の庭で栽培していた野菜を売ることだった。
青果業界に的を絞って、学生時代に取り組んできたいろいろなことをアピールし、4年次の6月に大手青果卸の会社から内定をもらった。
卒論で見つめたふるさと
卒業論文のテーマが決まったのは3年次の春休みに参加した地元企業の合同企業説明会で見た冊子がきっかけだった。「京丹後市は住むとこんな所だった。」というタイトルの、市が発行する移住希望者向けのPR冊子だ。そこには、農業を営む夫婦、古民家を購入して民宿を経営する人、設計事務所を立ち上げた建築家など、Iターンで丹後にやってきて暮らす人々が紹介されていた。自分がいやで飛び出してきた丹後に憧れ、都会からわざわざ移り住むひとがいる。文章から伝わってくる丹後への熱い思い…、自分には見えていなかった故郷の姿がそこにあった。
卒論では、Iターンで丹後に暮らす人々を通じて、自分が生まれ育った丹後を見直してみることにした。そして決まった題目は「人々はなぜ田舎に向かうのか…。田舎暮らしをしている人々の現状と意識」。調査方法は「質的調査」、大好きなインタビューに基づく研究だ。
題目決定は早かったものの、調査をはじめたのは4年次の9月だった。京丹後市役所に電話をかけて事情を説明すると、NPOを運営している元高校教員、人材コーディネーター、カフェ経営者、有機農家を紹介してもらった。その4人からインタビュー調査を始めた。その後、芋づる式につながりができ、最終的に約18名にインタビューを行うことができた。
その中に、有機農業を営む梅本さんとの出会いがあった。元インスタント食品会社のサラリーマン。自信を持って自分の子供に社会貢献をしていると言えるか疑問に思い退職して就農。そして今では、約130品目の野菜を約4ヘクタールの畑で栽培する有機農家である。インタビューを通じて地球に優しいスローライフを実践する梅本さんの生き方に感銘を受けた。帰り際、「かぶ」をもらった。すすめられるままナマでかじってみれば、ほんのり甘くて濃厚な旨み。梅本さんの生き方とともに深く脳裏に刻まれた。
いろいろな人に会えば会うほど、ふるさとのイメージはどんどん変わり、のりのりで書き上げた卒論は、2013年の人文学部卒業論文最優秀賞を受賞した。
坂ノ途中との出会い
卒業後、大手青果流通企業に勤め始めた沖野さん。流通の現場は想像を絶するものだった。見栄えの良さと安さだけで買っていく消費者。手間ひまをかけずに野菜を大量生産するために、化学肥料や農薬をふんだんに使う農業。流通では、仕入値を抑えるため大量に仕入れ、売れ残りは大量破棄。食物をまるで工業製品のように扱う流通の現場では、農作物への思いや愛はじゃまだった。
「どこから来たのかわからないこの野菜を、誰のためにとどけるのだろう」
同じように野菜に関わって生きているのに、梅本さんの生き方となぜこうも違うのか。休日が来ると、沖野さんは有機農家の野菜を販売する八百屋さんを訪ね歩くようになった。
坂ノ途中を知ったのはそのころだった。東日本大震災の放射能汚染で耕作地を失った農家と、受け入れ可能な農業法人や休閑地とをマッチングするという坂ノ途中の取り組みがニュースで報じられていた。
未来からの前借り
一度目にしたら忘れられない名前に惹かれてホームページを見ると、「未来からの前借り、やめましょう」というとがったキャッチコピーのあとにこんなことが書いてあった。
肥料に頼って野菜を育てると、野菜は弱くなりがちです。他の生物との競争に勝てなくなってしまうのです。そこで農薬を使用し、他の生物を排除します。そうすると、野菜に栄養分を供給してくれる微生物たちもいなくなり、土はカチカチになっていきます。そのため、即効性のある化学肥料に頼ることになります。だけど化学肥料に頼って野菜を育てると、また弱い野菜が育って…実は今、多くの圃場で、こんな悪循環が生まれています。
悪循環の中で、少しずつ土は痩せ続け、私たちの暮らしは農薬や化学肥料への依存度を高めているのです。農薬や化学肥料に頼る農業では、「今」の収穫量は増えるけれど、100年後の豊作は期待できないのではないでしょうか。つまり、「今」、楽に収穫できるのは、「未来からの前借り」をしているだけなのではないでしょうか?
彼女が働いていた大手青果卸が扱う野菜はわたしたちがいつも食べている一般的な野菜である。それらは慣行農法、つまり化学肥料・農薬を使った農法で作られている。対して、坂ノ途中と契約する農家は農薬と化学肥料を使わない、つまり化学製品の使用を避けて土壌中の生態系を活用した農法だ。
人生お金だけじゃない。どうせ働くのなら、納得できる仕事がしたいと思った沖野さんは、坂ノ途中のバイト募集に応募し、採用された。
自らもインディーズとして
沖野さんが坂ノ途中で働き始めたのは会社ができてまだ5年目。そこそこの規模の会社での勤務経験しかない沖野さんにとって、坂ノ途中は社員数40人という零細企業。会社としての制度も環境もまだまだ整っていなかった。
農薬と化学肥料を使わない野菜は、一度食べれば誰しもがその美味しさに驚く。そして身体にも地球にも優しい・・・しかし良いことずくめの割にさほど売れない。その理由は通常の野菜に比べて3割ほど高く、自然環境に左右され安定しない生産量が主な原因だ。この問題を流通の仕組みを整備することで解決しようと取り組んでいるのが坂ノ途中だ。具体的には契約している農家が生産した野菜を仕入れ、それを組み合わせて料理店や消費者に定期宅配している。
沖野さんの仕事は、店頭販売を行いつつ、仕入れた野菜を詰め合わせることだ。
販売ではただ野菜を売るだけでなく、野菜の養分や美味しい野菜の食べ方など、生産者の農家から教えてもらった知識を消費者に直接伝えるようにしている。「どこからこの野菜は来て、どこへ行くのか」が見える今の仕事にはほぼ満足している。不満な点といえば、自分自身、野菜を扱う知識と経験がまだまだ乏しいことだ。
実は、沖野さんはアルバイトの身分で今でも働いている。自分で畑もやってみたい、野菜のことも、世の中のことももう少し自由な身分で知りたい。そして、学生の時から取り組んできたインディーズバンドへの積極的ライブ鑑賞も納得できるまで続けたい。それらに取り組むには時間的に融通がきくバイトしかない。
「小説家になるのではなく、自分が小説になる人生を送ろう」
スタジオジブリの鈴木敏夫がそんなことを言っていた。
入って写真撮影にも取り組んだ。インタビュー好きの沖野さんは参与観察、つまり研究対象である社会や集団に調査者自身が加わり、生活をともにしながら観察を行うという社会学調査方法に興味を持ち、現代社会領域に進んだ。慌ただしい日々を過ごし、またたく間に3年次になった。沖野さんが就活をしたころ、就職活動の解禁は3年次の月だった。趣味というよりもライフワークと化したライブ鑑賞。その関係で食べることも考えてはみた。しかし、自分たち
題目決定は早かったものの、調査に仕入れ、売れ残りは大量破棄。
沖野さんの生き方は、世の中の常識からすれば、マイナーだろう。しかし、世の中がどうなっていくのか見えない時代、社会経験もないままどこかの会社に潜り込むよりも、バイトという生き方を選択しある程度の自由を確保した上で、じっくり生き方を模索するのもありかもしれない。みんな人生という坂の途中なのだから。