Vol.30(2016年3月)
宇野 文夫

宇野先生に聞く現代音楽と芸術

ポップスに慣らされてしまった私は思う。なぜ芸術は難しくて無愛想なのか。現代音楽の作曲家である宇野先生に聞いた。
取材:岡野奈実・山村嘉範

 

 

現代音楽を聞く
―まず現代音楽について教えてほしいのですが。

その前にちょっと聞いてみましょう。
※アーノルド・シェーンベルク「ヤコブの梯子」を聞く。

20世紀の前半に活躍した作曲家でアーノルド・シェーンベルクという人がいます。この人は「無調の音楽」を作った人です。無調、つまりドミソもなにもない、ただ不協和音ばかりを使う音楽です。この音楽は聖書にある事がらをタイトルにしていますが、言葉は聖書からはとっていません。「なんのために生きているのか、どこに向かっていくのか」ということを叫んでいるような曲です。この曲は1914年から書きはじめられ、その後戦争で中断、最後はシェーンベルクの死によって未完となった曲です。1900年代前半といえば、第一次世界大戦、第二次世界大戦、ナチスの虐殺とか不条理で悲惨な争いがずっと続いていた時代。シェーンベルクはユダヤ人でしたから、こういう感じの音楽になるんですね。これは、楽譜はきちっと書いてあるのですが、音はわざと無茶苦茶に聞こえるようにしてあります。これを「無調の音楽」といいます。
※スティーヴ・ライヒ「人奏者のための音楽」を聞く。

この人はユダヤ人で、まだ生きています。ポストモダンの時代の作曲家です。ドレミの世界で音楽を作っています。クラシック音楽とは違って、アフリカやアジアの民族音楽の影響を受けています。シェーンベルクが活躍したあとに突然出てきた音楽です。エンターテイメント性もあるけど芸術性もありますね。

 

現代音楽とそうでない音楽
―現代音楽と他の音楽の違いとはなんですか?

現代音楽と一般的な音楽をわかりやすい対比でいうならば、大衆的でないものと大衆的なもの、クラシックとポップス、儲からないものと儲かるもの、演劇とTVドラマ、絵画とマンガ、みたいなものです。しかし、実際のところ単純に二分してしまうことはできない。たとえばマンガでも芸術の域に達するようなマンガもありますよね。そんな作品をマンガは芸術じゃないからと線引きするのは狭量というか、おかしな気がします。ということで現代音楽とその他の音楽の境界線は曖昧です。
では、芸術的なものとはなにか?その定義は?更に純粋な芸術というのはなんのためにあるのか?。ひとつの解答としては、それは強い意欲に応えるためといえます。
もともと、芸術とエンターテイメントは同じカテゴリーであった。しかし、エンターテイメントは人々がなじみやすい存在であったために、どんどん世に広まっていった。一方、芸術は、エンターテイメントに比べて多くの人を引きつける力はない。とはいえ、今でも消えることなく生き残っている。それはなぜか。芸術というものは、人がなにか大切なものを忘れかけたときに、ふと思い出させてくれる、気づかせてくれる。あるいは、それを欲したときに応えてくれる。そういうものだからです。いうなれば、芸術とは人の心に深くグッと食い込むようなものを取り出し、凝縮し、固めたようなものです。現代音楽もそういうものなんですよ。
ちょっとこれを聞いてください。
※宇野文夫「ピアノソナタ第4番『耳と目で』」を聞く。

これは2010年に作った曲です。曲を作るきっかけは、いつもとても実際的な理由によるもので、この曲の場合は、親しい演奏者がグリーンフェスティバルに出演することになり、それなら旧作でなく新作を、ということになった、とそんな事情です。作曲をしたい動機は、いつも抱えているので、折々の機会に応じてその気持ちを噴出させているというところですね。このあと、この作品は計5回演奏してもらっています。
さて、でもこの曲がどのような曲かと聞かれると、言葉で表すことは難しい。タイトルに関連づけてあえていうならば、耳と目を使い、世の中のものごとをよく見極めることで本当に重要な問題が浮かび上がってくるのだ、ということになります。それから、譜面を見てもらったらわかるように、私の作る音楽は多くの音を使ってできています。言い換えれば、ピアノをやたらに長くかき鳴らすタイプの音楽です。

 

―演奏するのが難しいように思いますが、間違えませんか?

間違えます。完璧はまずほぼありえない。ポピュラー音楽の3時間のライブでも、ミスなしで終えるなんてなかなか難しいですからね。分もぶっ続けで弾き続けるこんな曲なら絶対に間違えます。
私は作曲家ですから作った曲はほかの人が演奏します。作曲したとはいえ、こんな長い曲ですから、私自身、全部楽譜をそらんじているわけではありません。けれど、ほかの人が演奏をしているのを聞いていると、自分の中でしっくりこない音が聞こえることがある。この違和感を感じたところが演奏家がミスしたところです。楽譜を覚えていないのに、なぜミスがわかるのかというと、当たり前のことですけど自分の感覚で音を選んでいるからです。この展開でこの音は選ばないだろうという。これは理屈で言い表すことが難しいものですよね。でも不可能ではないです。理論化はできます。

 

芸術とはなにか
―宇野先生にとっての芸術とは?

芸術のとらえ方は人それぞれ違うし、なかなか言葉にできないものなんですけど、あえて言葉にするなら、「感動の最も深い純粋なかたち」かな。「人間性の真実」、「崇高な思い」とか。私は安易で気軽に手にできるものを拒否したい人間なんです。無自覚に楽しい人より、どこか深い苦しみを持っている人に共感したい。同じにはなれないけれど、そういうことを常に忘れたくない。
ベートーヴェンの「運命」という曲が重苦しいように、人生は軽いものではない。芸術は苦しみから目を逸らさないんです。そこに真実があるのだと思います。世の中よく見たら幸せなことなんかそんなにない。ただただ幸せ、なんてことはない。大体なにかに苦悩しているはずなんです。芸術はそこを見据えるというか、すべてを気づかせるものだと思うんです。もちろんマイナスなことばかりでなく喜びも。あらゆる真実を気づかせるのが、芸術なんだと思うんです。だからやはり、私にとっての芸術は、「感動の最も深い純粋なかたち。人間性の真実。崇高な思い」ですね。

 

 

宇野 文夫(ウノ フミオ)人文学部 人文学科 教授
1959年   西宮生まれ
1983年3月 武蔵野音楽大学音楽学部作曲学科 卒業
1985年3月 武蔵野音楽大学大学院音楽研究科作曲専攻 修了 修士(芸術学)

主な研究課題
現代音楽作品の分析研究:特に、ヤニ・クリストゥー、カイコスル・ソラブジ、ジョン・ケージ、カールハインツ・シュトックハウゼン
クラシック音楽の分析研究:特にバッハの平均律、ベートーヴェンのピアノ・ソナタおよび交響曲、ブルックナーの交響曲
近代音楽作品の分析研究:特にジョルジュ・エネスコ、カロル・シマノフスキ

主な研究業績・作曲
2013年 ピアノ・ソナタ第4番「耳と目で」(改訂版)を大阪と東京にて発表。
1998年 月刊「音楽現代」誌に「朝比奈隆とチェリビダッケ」を皮切りに演奏や作品、作曲家に関する評論、演奏会批評を現在も継続して執筆。
1996年 ピアノ・ソナタ第1番「史書の扉から」を大阪・東京・ソウルにて発表。
1993年 「室内楽第4番」を「神戸・音楽の展覧会’93」にて初演(神戸市立博物館)。 1989年 「3本のフルートのための小品」を日本現代音楽協会の演奏会「現代の音楽展’89」(第一生命ホール)にて初演。NHK-FMにて放送。
1987年 作曲作品個展「宇野文夫の音楽Ⅰ」開催(新宿文化センター小ホール)。「フルートのための練習曲」「マリンバのための練習曲」「室内楽第1番」を初演。