2009年3月号
あだ名は”サトヤマ”。
11月に初雪、散歩をしているとイノシシに出くわす、林の中に入ればハチに刺される――。ホームページの紹介文に、なんとなく抱いていた「日本昔ばなし」のようなイメージが崩れてしまった私たち。とりあえず行ってみようと、バスに乗った。
(文・写真 高橋 侑司/編集 横浜 歩)
車窓から見える景色は徐々に都会の街並から、秋の紅葉で彩られた山間へと変わり、約3時間で湯原温泉へ。ひと休みする間もなくタクシーに乗り換え約20分で「津黒いきものふれあいの里」に着いた。岡山県の北部、鳥取県との県境あたり、蒜山高原もすぐ近く。動植物の生息環境を保ち、人々に自然との出会いと体験の場を提供することを目的とした約16ヘクタールもある自然公園だ。
敷地内にある「ネイチャーセンターささゆり館」の扉をあけると、片岡さんが「こんにちは!」と元気に出迎えてくれた。部屋の中に案内されると目の前では「やきんぼう作り」の真っ最中。やきんぼうとはソバ粉・米粉・ヨモギを混ぜた生地であんこを包み、囲炉裏の火で焼いた団子。津黒周辺で秋から冬にかけて昔から食べられているおやつだ。参加者は13人、県外からの参加者もちらほら。指導は地元の弁当販売グループ『ハッスル母ちゃん工房』の方。子どもも大人も夢中になって作業を進め、小1時間もするとこんがり焼けたやきんぼうが完成。おいしそうにほおばる参加者はみんな満足気だ。
「体験イベントの企画は、地元の方々との会話から生まれてきます。実は今回、そば打ち体験の予定だったのが、指導をお願いしていたおばあちゃんが転んで骨を折って中止になったんですよ。それでハッスル母ちゃん工房のところへ相談に行ったところ、昔よく食べていたというやきんぼうの話が出てきて、『やりましょうか!』ということになって…。参加者の皆さんも楽しんでいただいたようで大成功!」
片岡さんの肩書きは自然観察専門員。津黒いきものふれあいの里は、ムシから動物そして植物と多種多様ないのちで生態系が保たれている。そのすばらしさを日ごろ自然に触れる機会のない人たちに伝えていくのが仕事だ。来園者とともに野山に出て動植物を観察したり、炭焼き体験やきのこ観察会のようなイベントを企画・運営したりもする。 「昔から津黒に住んでいる方々は、山の手入れの方法や山の恵みの生かし方を知っている。そういう人たちが里山や山村の文化を今に伝えている。それらを掘り起こして、いろんな地域の人や子どもたちに伝えていきたいですね。」
要は人と自然をつなぐなんでも屋さんなのだ。
自然環境を学ぶ予定が…
岡山県総社市の郊外で生まれ育った片岡さんは、小さいころから自然の中で遊んでばかりいる植物や昆虫が大好きな少年だった。そんなこともあり、大学では自然に関わる勉強がしたかった。いろいろ調べてみると神戸学院大学の人文学部に森林研究の専門家がいるという。文系でも自然のことが勉強できると思い入学。4月のオリエンテーションが終わってから、目当ての先生と話そうと探すが姿が見えない。聞いてみると、なんと先生は3月いっぱいで退職されていたのだった!
なんとか気を取り直して勉強を続け2年生に進級する際、自然環境について学ぶ人間行動コースに進もうとする。が、成績はそこそこだったものの、取得単位数の関係で選考から漏れ、気がつけば歴史文化コースに配属されていた。
後にライフワークとなる里山に出会ったのはちょうどそのころだった。友人を誘って岡山県自然保護センターで行われた千葉喬三先生(現 岡山大学学長)の講演を気軽な気持ちで聞きに行った。里山とは何かということについて、いろんな角度から解き明かす内容だった。
「そうそう!俺が言いたかったことってこういうこと!」と、痛く感動した片岡さん。その時から彼の研究テーマは「里山」になった。どうしても里山の研究をしたかった彼は、自然環境が学べる人間行動コースへ行こうと、コースの大塚先生に直談判したがあっさり断られてしまった。
自然保護のシンボル「里山」
里山とは、集落の近くにあり、薪や山菜など家庭用エネルギー源から食料、肥料、住宅材料など、いろんな用途で利用されてきた、人と関わりのふかい森林のことを指す。それはまさに彼が子どものころ駆け回った野山そのもの。ところが経済成長とともに里山は利用されなくなり、放置されていく。そして1970年代以降は、都市やゴルフ場などとして大規模に開発されるようになったが、反対する自然保護運動が起こり、開発と保全が争点となった。
「子どものころ、田んぼのまわりとか、またその周辺の山とか、いっぱい生きものがいて楽しかった。あれってもしかして、けっこう人間にとって重要じゃないのかと漠然と考えていたんです。そういったことがすべて『里山』という言葉に込められていた。」
歴史の視点で里山を読み解く
3年生になり、日本文化史を専門とする水本先生のゼミに配属されるが、里山への想いは募るばかり。
「けど、どうしても里山という視点で森林研究がやりかったので、あきらめずにその想いを先生にぶつけました。その結果、歴史の面から里山を研究すれば? と許しを得ることができた。」
活動はキャンパスから外へと拡大していく。すでに2年生の頃から倉敷市立自然史博物館の観察会に通い始め、岡山県自然保護センターの観察会や研修会にも足を運ぶようになる。明けても暮れても里山づくしの片岡さんはいつしか先生からも友達からも”サトヤマ”と呼ばれるようになる。
一浪して念願の大学院へ
3年生の夏休み明け、同期たちが就職活動をするころ、大学院への進学を考えるようになる。 「進学すれば就職口が少ないことは分かっている。それでもあえて大学院進学を決断するのに悩み抜いた。最終的には一生貧乏しても仕方ないくらいの覚悟でいました。何度も親に頭を下げて、自分の考えを伝え、なんとか許しを得ました。」
同級生たちが就職活動をする中で、やりたいこととはいえ、ひとり我が道をゆく彼の心境はどうだったのか。
「焦りはありましたが、そのころは目前に大学院の試験が控えていた。岡山大学大学院自然科学研究科に狙いを定め、自然科学の参考書を読みふける勉強漬けの毎日でした。」
もっぱら文系の勉強しかしていなかった彼にとって、理系の勉強はハードルが高かった。大学院の試験に落ちて浪人が決定。しかし、その後の猛勉強の甲斐あって、大学を卒業した年の夏の試験で合格。一浪で岡山大学大学院に進むこととなった。
大学院で取り組んだのは、「広葉樹二次林における慣行的な里山管理作業が林内環境と実生更新に及ぼす影響」。秋、里山で地面に積もった落ち葉をはく「落ち葉かき」。落ち葉かきは、落ち葉から堆肥(たいひ)を作るために行われていたのだが、そういった人間の行為が森林にどのような影響を及ぼすのかということについて研究した。
大学院の修士課程を修了後、片岡さんは岡山大学資源生物科学研究所の野生植物研究室に研究生として席を置き、1年後には同研究所の臨時職員となる。
「その時、知り合いの先生が『津黒の里で自然観察専門員の欠員が出たので働いてくれる人を探している』という話を聞いて、僕を推薦してくれました。」
採用試験に合格した片岡さん。27歳にして自分の専門がいかせる仕事に就くことができたわけだ。
ムシキングのクワガタを探しにくる子どもたち
津黒の里には、夏休みになると都会から親子連れで多くの人が訪れる。そんな都会の人たちによく驚かされるという。
「『虫がいるからなんとかしろ』という人がいるんですよ。子どもたちに人気のカードゲームで『甲虫王者ムシキング』に出てくる外国産のクワガタを探しにくる子がいたり。公園内にマムシが生息していることを知った親が、『危ないんで帰ります』とかね。でも、そういった都会の子どもたちは、マムシが危険だということを知らないから、現物を見ても怖がらない。」
だから、来てくれた子には自然について少しでも知ってもらいたい。そして、自然の中での遊び方、過ごし方を教えたいと話す。
仕事がらか、園内の自然環境のちょっとした変化にも気づく片岡さんは、園内で行った自然観察会で”チャイロスズメバチ”の巣を発見した。このハチは、今まで中国地方では巣が見つかっていなかった希少な種類のハチである。それが岡山県で初めて発見されたことにより、日本のチャイロスズメバチの分布が塗り変わってしまったそうだ。
自然観察専門員として精力的に活動する片岡さんに今後の抱負を聞いてみた。
「ふれあいの里に、観察会だけじゃなくて、標本を作って、園内のいきものの情報を蓄積していきたい。それをさらに発展させて岡山県北部の中国山地をテーマにした博物館を作りたいですね。人間活動の影響によりいろんな生物の絶滅もしくは減少が危惧されており、環境破壊はとどまることを知りません。そういう意味からしても、博物館という器を作ることで貴重な情報を集積し、次の世代に残し伝えていくことが究極の仕事だと思います。」
里山の現状を危惧しながらも、未来への希望を語る片岡さんの言葉は熱を帯びていた。今、自然保護計画の政策立案などのために、生態学を中心とした研究者は里山に注目している。人と自然が折り合いをつけて共存してきた里山だからこそ、それに関わった人々の知恵を借りなければいけない。こういった研究には、聞き取り調査や歴史的アプローチといった文系的な研究手法と自然科学的な研究手法の両方が必要と片岡さんは語る。
長い人生、誰しも一度や二度は道草を食ったり、振り出しにもどったりすることはある。そういうことは一見ムダなようにも見える。がしかし、よくよく考えてみれば、意味のないことなどなにひとつないんだ……片岡さんにお話を聞いた後、日暮れの田舎道を車で揺られながら私たちはそんなことを話し合った。
卒論ダイジェスト
農用林とその利用 岡山県上房郡賀陽町を事例として
日本の農業は森林の資源を利用することで成り立ってきたと言える。農業に利用されていた森林を「農用林」と言うが、農用林は農業だけではなく、農村の生活に欠かせない生活林でもあった。
かつては農用林の多くが「入会」によって、共有として管理されていたが、賀陽町では森林の過度な利用が進み、植生の保護を図るために、早期に私有として分割された。 明治後期から昭和にかけては、「明治農法」と呼ばれる農業技術の変革の時期であった。同町内で行った聞き取り調査の結果においては、それまで刈敷等の直接的な肥料が主要な肥料であったが、明治農法期に飼育が普及した牛によって、廏肥が主要な肥料となったことが示された。
明治農法の展開によって、賀陽町の農家の生活は激変したと言える。そのひとつが、購入肥料の増大である。このことによって、農家は経済構造に組み込まれることとなり、現金収入が必要となったが、その現金収入をもたらしたのも、農用林の林産物であった。ただし、明治農法期には森林の利用方法にはそれほど変化はなく、農用林の植生は維持されていたと言える。
農用林は1960年代の高度経済成長期に、再び起こった農業の改革と、燃料革命によってその役割を終えた。利用されなくなった農用林は森林としての姿を大きく変えた。その影響は賀陽町の特産物でもあったマツタケの出荷量の減少としても表れている。
農用林がかつての姿を失ったことによる影響は、森林のみに限定されるものではない。最も身近な自然であった農用林は、文化の形成や、教育機能を持っていたと言える。我々は農用林を身近な自然として利用することで、共通した自然観を持つことができたのではないだろうか。それは農用林が育んだ文化と言えるのではないか。
その文化を守り受け継ぐためには、新たな身近な自然の捉え方である「里山」の保全・管理活動の手法を応用して、「農用林」の歴史的、文化的な要素を学べるようにすることが必要である。