2007年12月号

震災を語り継ぐ

阪神淡路大震災で地表に現れた巨大な断層。それを保存、展示していることで有名な北淡震災記念公園。開園から10年目を迎えた今も、観光や修学旅行などで全国から人々が訪れる。このユニークな施設で働く先輩を訪ねた。
(文 中村智也/写真 鈴木朝絵/取材 野下彩香・胡中祥穂)

 

地面の下から何かが近づいてくるような「ゴーッ」という凄まじい音とともに、大きな揺れが起こる。地面が割れ、いろいろな物が破壊されていく音が、真っ暗な町に大きく響き渡る。建物は一瞬のうちに崩れ、辺り一面がぐちゃぐちゃに。見たことのない恐ろしい光景。
取材をはじめる前に、神戸市灘区にある「人と防災未来センター」の1・17シアターで阪神淡路大震災を追体験した。というのも私は震災当時、広島で暮らす小学生。あの震災がどんなものかを知りたかったからだ。ほんの十数年前に起こった大惨事。なのに明るく豊かな神戸の今しか知らない私にとって、リアルにそれを感じることは難しい。

 

生々しい地震の傷あと

明石から高速船で30分、淡路島の北西にある富島港についた。ここには野島断層という活断層が通っている。震災では地面が割れて断層がむき出しになり、地震のエネルギーのすさまじさをあらわす様子はテレビなどを通じてしばしば全国的に報道された。この断層を保存しているのが北淡震災記念公園である。
富島港から山側へ歩いていくと、すぐに公園に到着。まず目につくのは長さ100メートルを超えるだろうか、一直線に伸びているガラス張りの建物。これが野島断層の保存館だ。それに沿ってメモリアルハウス、震災体験館、セミナーハウス、物産館など6つの施設。大きなプロペラの形をした風力発電装置もある。
保存館に入る。国道43号線の高架が倒壊し、トラックが横倒しになっている震災当時の惨状を実物サイズで再現した展示に圧倒される。

 

再現された国道43号線の倒壊部分のモニュメント

受付で用件を伝えると、制服姿の端坂さんが現れて温かく迎え入れてくれた。挨拶もそこそこに、館内を案内してもらう。
平成10年に開館した記念公園は、館長である小久保正雄さん(前北淡町長)の発案。震災直後、この地に現れた断層を「見世物にできないだろうか」との思いつきからだったそうだ。しかし、「つらい思い出の象徴を、残しておくなんてもってのほか」という住民からの反対の意見もあった。そこで県に要請して学者の意見を聞くなど地道な活動をおこない、県の第3セクターとして開館にたどり着いたということだ。

 

 

命を救ったコミュニティー

保存館に入る。外から見るより広く感じられた。実物の断層の脇に来場者が歩くスペースがあり、さらにパネルや模型も設けられている。指し棒を使い身振り手振りで話す端坂さんの説明はわかりやすい。「話すのが苦手なんですよ」との言葉が信じられない。
この施設の中心になっているのが断層だが、保存されている断層として140メートルの長さは世界一、しかも保存状態もよい。平成10年には国の天然記念物に指定されている。
北淡町での震災当時の状況を聞いた。野島断層は地震の際、右横ズレ逆断層という変形により、一部の土地が盛り上がった。北淡町では、わずか40秒ほどの揺れで全世帯の約3分の2が全半壊、39人もの死者を出した。また、生き埋めとなった約300人が救出されたそうだ。

 

ふたたび淡路島へ

端坂さんとともに施設を一巡した後、学生のころの話を聞いた。
この地に生まれ育った端坂さん。この土地は、地域のつながりが強いが故に、コミュニケーションが出来”すぎ”ているという。
その窮屈さから逃れたい、そしてもっと外の世界を見たいという気持ちが、大学進学を決意させる。
「反対されましたが、どうしても大学だけは」となんとか親を説得。「心理学を学びたかった」と人文学部へ入学し、学生生活を楽しんだ。
「ラクな方に流されてしまう性格だから…。もっと有意義な学生時代を送れたんでしょうけどね」と振り返る。結局、心理学系ではなく文化人類学の五十嵐先生のゼミへ。「卒業論文も取りかかったのは遅かった」という端坂さんだが、たまたま巡り会った文化人類学という学問が、図らずも今の仕事に結びついている。人生とはわからないものだ。
就職活動の頃、公務員をめざし、専門学校でも学んだ。「自分より真剣なクラスメートの姿に怖気づいた」と話す端坂さん。4年生の冬になっても就職先は決まらないまま、「自分に一体何ができるのだろう」と悩んでいた。
そんなとき、淡路島で通っていた英語教室の先生に北淡震災記念公園での勤務を打診される。先生の父親が記念公園で相談役をやっているということで声がかかったのだ。突然舞い込んだひとつの進路。ただ、公務員をめざしている自分がいる。しかし、めざす意味と合格への道も見えてきそうにない。さらに母親からも「就職先がないなら、淡路島へ帰ってきなさい」と言われてしまう。「淡路に帰って、働きながら公務員をめざすことも考えていた」
ーーこうして淡路島に帰ることを決意。早速2月から研修生として公園で働くことになった。

 

ふるさとへの想い

「働く前まではあの震災については考えたくもなかった」  幼い頃の忘れられない体験。震災の話題は避けていたという端坂さんの震災記念公園での仕事がスタートする。
まず、端坂さんに与えられた仕事は、保存館の案内役。マイク片手に来館者に施設の説明をする。
「最初は戸惑いました。この施設には一度も来たことがなかったし、地震や断層の知識もなかったですから」
端坂さんは過去の震災を伝える側になって、被災者の人々の震災の記憶について積極的に耳を傾けるようになった。
「最初はマニュアルを渡され、丸暗記します。案内の仕方は先輩を真似ることから。大事なことは相手との距離を縮めること。気を引きつけるために、メリハリのある案内を心がけました」
また、「沈黙の時間」を作ってはならない、と案内の極意を語る端坂さん。「人によって感じ方、受け取り方が違うので、それに合わせた説明をしなければならない」例えば、震災の知識のない小学生に難しい用語を使うと理解してもらえない。 「自分が震災についてわからないからこそ、勉強し人にわかりやすく伝えようと心がけるようになった」
来館者と同じ目線で過去の震災を振り返る日々の中で、端坂さん自身の気持ちが変わっていった。入社してすぐ館長に言われた「世界にひとつだけの施設なのだから誇りをもって」というひとこと。当時は受け流していたその言葉が、仕事をするうち、彼女の心に染み渡っていった。
「大学に行ってからは、帰りたくない場所だった」淡路島。そんな思いが変わっていく。
「働き始めて、あらためて人の温かさを知りました。まだまだ知らないことだらけのこの町を深く知ろうという意識が芽生えたんです」

 

ボランティアのひとたちと

2005年8月、「語りべ」担当になる。語りべとは、震災の体験を来館者に直接語るボランティアのことを指す。現在16名ほど登録されている語りべの仕事の振り分けや連絡を行う。
「最初は『なんで?無理』と思っていました。先輩の『できると思うよ』という言葉に後押しされ、不安ながらも始めました」
以前よりも来館者とのふれあいが減り、語りべとの交流がメインとなっていく。だが、最初はなかなかコミュニケーションがとりにくかったという。
「お年を召しておられるうえに、教員だった方が多いため緊張してしまって…」
この状況を打開しようと「語りべ」研修を企画し、語りべたちといっしょに広島へ旅行に行く。この旅行がきっかけで語りべと打ち解け、距離も縮まっていく。
「高齢化が進み、『語りべ』をやってくださる方が年々少なくなっています。震災を体験された方であれば年齢にかかわらず活躍していだけるはず。もっといろんな年代の『語りべ』が活躍できる場を作りたいですね」そう話す彼女から、震災を語り継がなければいけないという使命感を感じた。
設立当初は注目を浴びた北淡震災記念公園だが、年々来館者数が減少している。今後、施設が発展していくためには”防災”がキーワードだと端坂さんは言う。
「この公園は、震災の傷跡を残すことには成功している。今後は次に震災が起こったときに模範となるような施設にしたい」
震災大国日本において、過去の災害を伝えていく動きと、未来の災害を予期した動きの両面が必要なのだろう。
端坂さんが大学を卒業した2004年は、就職氷河期だった。うまくいかない就職活動の中で、手にしたのは地元・淡路島の震災記念公園の仕事。ーー前を向いて生きていけば、いつか道は開けるんだ」
端坂さんのインタビューを終えて、そんなことを感じた。

 

 

卒論ダイジェスト

男性の化粧行動

化粧は現代の女性のほとんどが行っている行為だが、現代の男性に焦点をあててみるとどうだろう。メーキャップという点では、歌舞伎役者やビジュアル系バンドのような人達に限られるが、眉・ひげを整える、リップクリーム・香水の使用など化粧行動という点では、今や多くの男性が行っているのではないだろうか。また、ここ数年で男性向けの化粧情報が増加し、低価格商品の登場で化粧品はより身近なものになっている。ここで注目したいのが、男性の化粧行動は「性差のボーダレス化」にむかっているのか、それとも「男性独自の化粧行動」であるのかということである。
本稿ではそれらを明らかにするため、男性の化粧行動の歴史を振り返り、10代後半から20代前半の男女にアンケート調査を実施した。すると、現代における男性の化粧行動は、さりげなさに基づく「自分らしさ」の表現であり、女性の「華やかさ」に基づく化粧とは全く違うものであるとわかった。このようなことから女性のメーキャップとしての化粧は今後、一般の男性に広まることはないと予測される。では、今後広まるとすれば、それは「スキンケア」ではないだろうか。しかし、「スキンケア」が広まるためには、従来の「非コミュニケーション」である雑誌・テレビの情報だけでなく、「コミュニケーション」を通しての情報の入手が必要であると考えられる。今まで使用していなかった化粧品に触れてみることで、男性の化粧行動に対する興味と自分達が化粧行動を行っている自覚はさらに深まっていくであろう。そして、その現象は男性独自の化粧文化の誕生だといえるだろう。また、男性にとって化粧品は、「化粧品」というよりさりげなく変化するための商品、「化商品」として身近な存在になっていくのではないだろうか。